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「存在と平面」
——————— 制限と自由 事物と諸力 自由への展望は、いつも制限されることから始まる。自由の前提には、個体を外部から統制するような何ものかの存在が不可欠となる。そこで求められる自由とはすなわち、「支配からの」自由、「制限からの」自由である。私たちは、個体に制限を加える力の関係から脱却することによって初めて自由がもたらされるのだと、信じてやまない。だが、この力の関係は、生のあらゆる場面に潜伏し、事物を取り巻いているように思える。権力、コミュニケーション、諸体系、さまざまな出来事など、事物自身とそれを触発する力との関係性は、日常の至る所でたえず発動している。人間が住まう社会体を構成しているのは、事物と形態とのあいだで取り交わされるそうした諸力の往来、無限に継起する力の関係の複合物である。いかなる環境においても、力の複合体の中で個体は多分に制限されうるし、逆に言えば、諸力による制限なしには、どんな事物も存在しないと言うことも出来る。したがって、個体の自由について考えるとき、それが受ける制限や選択肢の可能性を頼りにするのでは、十分とは言えない。諸力による制限から逃れることではなく、必要となるのは、そうした制限や可能性をも必然的に力の関係の総体に集約するような、ひとつの肯定的な視点である。それはもはや、解放の類義語となる自由でも、不自由の対義語となる自由でもなく、真に事物と諸力の関係を見抜くための、あらたな認識方法に裏打ちされた自己開展の自由となるだろう。 区分と部分 砂浜と海原 私たちの認識の様式は、常に言語体系に基づいて進行している。言語はまず、あらゆるものを差別化し、区分をもうけ、名前を付けることから始める。言葉は、マグマ状態にある事物や形態を差異化することで、すべての物体と現象を、凝縮し代表したかたちで認識させる。例えば「走る」という言葉を聞いて私たちが認識するイメージは、「走る」という一連の行為を凝縮し、代表する一枚の写真のようなものである。事物や感情、行動や現象に、多数の境界線を引き、便宜上の区分をもうけることによって、私たちは世界を記号化し認識する。しかしながら、記号の支配を受ける以前の世界に、いかなる断絶もない。事物と諸力とは絶えず触発と変様を繰り返し、時空間内で常に連続して質的変化を遂げている。無限に多くの力の上に成立している諸事物は、時間が持続するがまま、常に新たな何ものかへと、質/量的変化を個体内に引き起こすのであって、確固たる物体や主体なるものなど、どこにも存在しない。全ての事物は、力の関係のただなかに放り込まれた、不均衡な粒子の集合体であり、私たちはそれを記号や差異の体系に収めることで、辛うじて明瞭に、イメージとしてそれらを認識するにすぎない。もちろんある程度までは、記号による細分化が必要だろう。しかし、区分と部分とが、相異なるものであることを理解しなければならない。世界全体は、海原のようなものであると想像される。そこにあるのは、紺・青・白という色の区分や、沖・波・浜という名称の区分ではなく、分子や粒子が作る波形・速度・起伏の連続変化であり、粒子がつくる無限の部分集合は、波打ち際の波と砂のように、諸力との関係性の中でたえずその形状を変化させていく。事物とは、空間的現在性と時間的後続性の両方に、一定の広がりを持つ延長/外延であり、さまざまな力の関係の曲線が集合する不均衡な交差点に立ち、時間軸に沿ってなめらかに運動する変数となる。 外部と内部 社会と自然 人格的個体は、さまざまな感情、国家、システムなどの内側に個体を位置づけ、制限するものの外側に出ることで自由になるのだと確信している。私たちは、支配する外部、制限する境界の向こう側に、理想郷を見出すのである。しかし、その自由への願望こそすでに、権力や制度に取り込まれたものではないか。そもそも事物とは、何かの下にあるものでも、何かの内側に押し込められたものでもなく、それこそが外部であり、上端なのである。私たちは、権力に従順な身体から、あらゆる外在的概念を無効化するような認識へと向かうために、道徳や規範が見させる夢から、いち早く目覚めなければならない。スピノザの考える自由を携えて、私たちは、抽象的体系が支配する社会平面から、あるがままの力の関係、事物の戯れをみる自然平面へと、認識の移行を図らなければいけない。社会や権力が作り上げる主体を解体し、粒子になること。確固たる境界を放棄して、粒子になった主体だけが、砂時計の最狭部を通り抜けることが出来る。社会平面にとどまった主体を自然平面へと移すために、私たちは、その認識の砂時計を反転させなければならないのだ。 結果と原因 多数と多様 社会的コードは、事物の存在を、その内部に押しやる一方である。事物の外部にはり巡らされた、支配的かつ規範的な社会体系や言語的区分、その全てをスピノザは、抽象的なものだとして告発する。スピノザの提示する自由な認識とは、事物の外側に作り出されたものではなく、事物をもっとも外側にある存在として、事物の内部へと、その根源や本質へと迫るような認識方法である。スピノザの哲学によれば、すべての事物は、唯一絶対の自己原因〔実体〕のもとに存在する。〔実体〕は、あらゆる事物の基底となる地平であり、〔実体〕の本質とは、すべての〔様態〕について共通な「存在する力」である。〔実体〕のもとでその本質を表現する無数の諸事物〔全宇宙〕は、〔運動と静止〕を繰り返す無限に多くの粒子の集合と、諸力に対する変様能力から構成されており、他の事物との力の関係〔触発—変様〕に依存することではじめて、この世界に存在をみるのだ。この〔触発—変様〕のプロセスにより、私たちはしかし、〔全宇宙〕の諸事物が私の身体にもたらした「結果」を、ただ受容するだけにすぎない。社会的身分や外見上の分類、さらには多個性の主張さえも、〔実体〕なき認識の前には、多数性の領域にとどまってしまう。私たちが多様性を認識するためには、「結果」の認識から出発した主体を、その原因からとらえ直さなければならない。あらゆる事物は、それぞれ独自の固有的原因に因って異なるのではなく、ひとつの同じ原因〔実体〕を表現するものとして、その表現の仕方・方法、つまりそれが持つ変様能力・強度・力能の度合の違いに因って異なるのである。あらゆる質的差異は、〔実体〕の認識と、異なる力能の度合で原因を表現する表現者として諸事物を考えるかぎりにおいて、多様性と呼ばれるに相応しい。つまり、海原〔全体〕にとって、波〔部分〕の幅や大小といった外見上〔結果〕の差異の内実とは、様々な形状をもつすべての波の唯一絶対の原因となる水面〔実体〕における表現方法の差異、また、個々の波の起伏が〔触発—変様〕の力の関係に対して持つ強度・力能の度合の差異として把握されるべきなのだ。したがって、記号論が教えるような、結果的な事物の配列関係や抽象的区分、さらに私たちの価値観や認識を支配するいかなる外在的概念も、スピノザの自然平面においては効力を持たない。抽象的な認識や外在的概念、あるいは数的区分によって考えられるものはすべて多数性・複数性であり、他方、〔実体〕の表現上でその構成的差異を考えるかぎりにおいて、私たちは、諸事物と力の関係を多様体の中で把握することが出来る。多様性とは個別性のことであり、そこには普遍概念など存在しない。多様体の普遍性とは、個別性を形成する構成関係の共通性であり、また、それぞれの個別性が延長され隣接するような、個別性の集合なのだ。 抽象と具体 否定と肯定 たとえば、現代音楽のちからを借りることが出来るかもしれない。五線譜に記譜される従来の音楽とは、音階に支配された音の体系である。しかし音符とは、音の高低に区分をもうけて作られた、凝縮し代表したいくつかの音であり、言語と同様、多様体の平面を考えるモデルとしては適さない。音階とは文字どおり音を段刻みに凝縮した姿のことであるが、実際に世界に存在をみる音は、音階をさらに分解した先にある。一部の現代音楽には、ノイズ、スクラッチ、日常に潜む音色など、音符に還元されない音声を素材として扱うものが多くある。つまり、打楽器や肉声、雨粒やブレーキの音のように、極と極とのあいだにある、記譜することのできない音声を含んだものこそが、〔実体〕を表現する音の全容ではないか。個別性としての音声を把握するためには、音符という凝縮/代表の形式ではなく、あらゆる音を粒子にし、振幅と周波数〔運動と静止〕の構成関係によって音を理解することが必要になる。私たちが音楽を聴くのは、コンサートホールやライブスタジオだけではない。風が吹き、鼓動が鳴り、誰かが会話をする限り、世界の至る所で私たちは音楽を聴くことができる。目が常に光を取り込んでイメージを把握するように、耳もまた常に個体の外部から音声を取り込んでいる。この場合、存在としての可視的事物と可聴的音声とは不可分であり、この〔全宇宙〕が存在し続ける限り、世界から音が鳴り止むことはない。事物の多様体、音色の多様性を把握し知覚すればこそ、存在は、具体性を持ったものとして、私たちに把握されることになるだろう。音階の体系が支配する音楽ではなく、あらゆるもののあいだから聞こえてくる音色に耳を傾けてみること、そして、戯れるノイズの囁きに、純粋無垢な聴取で応えてやることこそが、無数の事物が放つあるがままの不協和音を、肯定的に調和し理解する認識へと、私たちを案内するのだ。自由な作曲家の仕事は、ドレミを奏でることよりも、むしろ、この世界に流れるハーモニーを具体化し、諸事物のあるがままの存在と力の関係を、カメラに収める工程に似ている。 …「と」… 沈黙と音声 私たちは果たして、あらたな知覚・認識の手段を構築することが出来るだろうか。社会的体系から脱却し、言語や道徳の支配をもかいくぐるような生の可能性が、スピノザの哲学には見て取れる。あらゆる事物の根底にある「存在」をめぐる解釈、しかし凝縮ではなく離散、排他ではなく包括的な解釈。固有の名詞や形容詞の範囲に回収されず、むしろ助詞や接続詞に包含されるような力の関係、ドゥルーズの言う「と」の概念、に目を向けること。重要となるのは、言語的対象や社会的実在としての物体の知覚ではなく、諸事物の構成関係にそれぞれ内在する均衡と均衡の「あいだ」を射抜く、行間を読むような知覚・認識の様式である。すなわち、<事件>の個体化、つまり、潜在する無意識の獲得である。<事件>は、原因と結果、能動と受動、知覚可能な事物と力のあいだにある。それは、起こすものと起こされたもののあいだに潜伏する、「起きるもの」のことであり、自立述辞としての出来事<doing>、「非物体的述語」<not-being>に等しい。スピノザ哲学に頻出する〔属性〕の概念とは正に、受動的である諸事物〔様態〕の現場で起きた結果〔触発—変様〕と、能動的自己原因〔実体〕とのあいだで神の本質を表現する、言わば媒介者・中継地点としての<事件>の代弁である。したがって、<事件>は「〔実体〕の表現」に置き換えられる。私たちはここで、事物の空間的配列から、継起的な諸力の関係性へと移行することになるだろう。結果から出発し、その原因を表現する<事件>の連続として世界を把握すること、つまり海原を、水面〔実体/原因〕と波〔主辞/結果〕のあいだで起きる起伏や速度の表現、無数のプロセス〔述辞/事件〕が織り成す出来事の総体として捉えること。そこには始まりや終わり、主観と客観の境界さえない。あるのはプロセスの複合体であり、意図されたもの〔音声/イメージ〕と意図されないもの〔沈黙/無〕の差ではないのだ。むしろ私たちは、主たる観点の中でのみ、音とイメージの中でのみ、生きていくほかないだろう。そしてそれが、内在に徹し、潜在的な無意識を克服するための方法であり、スピノザの認識の先にある、自由への到達手段なのかもしれない。 認識と創造 記号と事件 したがって私たちは、〔実体〕という存在の地底を表現し、一定の強度と変様能力を持ち合わせた、無限に多くの〔様態〕の複合体として世界を把握しなければならない。世界の海原は、諸事物を構成する粒子が時間持続と共に繰り返す絶え間ない変動・変率のプロセス、渦や潮流あるいは汐の干満といったもののただなかにあり、<事件>のマグマで満たされている。外在的概念による多数性ではなく、内在的原因から説明〔開展〕される多様体の平面へ、そして局地的あるいは結果名詞的な認識をやめ、原因と結果のあいだで起きる出来事へと、自らの知覚を切り開いてやること。粒子が作る平面から、無限の点の連続によって変曲線が生まれ、主体はその無数の曲線の交差地点に存在する。主体とは、人称的主体のことではなく、強度の〔様態〕としての、力の関係の常に不安定な諸曲線の暫定的かつ可変的な均衡状態に浮かび上がる統一化の焦点、世界と対峙するひとつの観点であり、記憶の円錐曲線と知覚の関数曲線との接点で起きる、継起し後続する出来事の集合体のことである。現在性に直面した私たちの認識は、主体と世界の<事件>の最前線に立ち、スピノザの自然平面に臨むことになるだろう。音とイメージ、力の関係、そして連続する<事件>、それらすべてが〔実体〕の表現であり、〔実体〕を表現するかぎりにおいて、多様である。多様体の平面に潜在する無限の事物と音声に知覚を注ぎ、<事件>とプロセスを認識できるかたちに個体化すること。そこではじめて、私たちは、既存の体系を解体し、諸事物のあいだに新たな<事件>を引き起こす手段を手に入れる。義務と権力と知をそなえたさまざまな審級に抵抗し、それらを無効化するために、いま、拍子から独立した時間の中に音を生じさせ、母国語から独立した文体の中にことばを生じさせ、言語による凝縮から独立した空間の中に知覚を生じさせるべきときが来ている。世界とは、音符の連立する交響曲ではなく、〔全宇宙〕の諸事物が、存在するがまま演奏者たりうるようなオーケストラの形態をとるものである。それらは〔実体〕の自然平面を表現するかぎりにおいて、包括的あるいは肯定的に調和し合い、存在と<事件>のハーモニー(多様体の協和音)を奏でるだろう。そしてスピノザのタクトによって、自由な認識の譜面へ、あるいは新たな知覚・創造の地平へと、私たちは導かれてゆくにちがいない。 #
by tajat
| 2005-07-17 15:55
| 雑記
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