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仕事が忙しくてほとんどテレビを見なくなった。
その代わりにニコニコ動画で寝る間をおしんでアニメを見ている。 なんかおかしい。 「忙しくてもネットやアニメは見る」というよりは、なんか 「激烈に暇なときに見てしまうのがテレビ」なのかもしれない。 「ふとテレビ」はあるが、 「ふとニコ動」はない。 まあそれも、部分的には、所詮「まだない」だけのことかもしれないが、 テレビを見ることの受動性というか「楽さ」みたいなものはやっぱり凄いと思う。 ネットはブラウザを開いても勝手に情報が流れてくるわけじゃないし、 クリックや入力行為によって情報を「Pull」してくることのオンデマンドさの裏には それなりの「手間」がある。 そういうことの中にこそ「プロシューマー」的な現象がおこるのに違いないだろうが、 だからこそ余計に、テレビを見ているときの「何もしてなさ」或いは、 「能動性や欲望の低さ」が強調されてみえてくるというものだ。 テレビは「Push」するメディアなのだ。 圧倒的なテレビ放れの中でも、唯一フジテレビの「あいのり」だけは、 職場の先輩が毎週ワンセグで録画しているということもあって、 見逃すことなくみている。 寧ろ働きだす前よりも頻繁に、且つ熱心に見ている。これがまたやっぱり面白い。 高尚な文学作品なんかよりも自分は結局こういう「イージー」なものの方が 好きなんじゃないかと思ったりもするが。まあそうとも言えないところがある。 あいのりは確かによくできている。 あいのりの中で繰り広げられているのは基本的には男女の他愛ない恋物語で、 あの子のこと好きかも俺ー、でもあの子はもしかしたら別の子をー、 みたいなことをほとんど毎週のように展開している。 でもそれで飽きないのだ、まったく。 あいのりのうまいところは、まず「付き合ったら終わり」というルールを 作ることによって、恋物語にありがちな(寧ろつきものと言っていい)マンネリ化を 確実に排除できているということだ。 好きな奴同士が付き合ったらそりゃあ幸せだろうが、 「日々ラブラブ」な継ぎ目のない欲望の完成系を毎週見たいとは誰もさすがに思わない。 逆にあいのりは、「付き合ったら終わり」或いは「ふられたら終わり」の条件を 設定することによって、永遠に「恋のはじまりの予感」だけを視聴者に提供し続ける ことに成功したおそらく日本で初めての恋愛ストーリーだと言ってもいい。 まあ、本当に他に例がないかどうかはおいておくとしても、 あいのりでカップルになれば当然のように次週からそいつらはおらず、 代わりにまっさらな新人が二人も入ってくる仕掛けになっているわけだから、 視聴者の欲望は、手を替え品を替えほどこされるネタ=コンテンツの入れ替えと 巧みな編集によって、半永久的に保たれつづけるし、 それころか、「付き合ったらどうなる?」→「喧嘩して仲直りする経緯」→ 「恋模様のルーチン化」→「別れるのが先かこっちが飽きるのが先か」 というような、欲望のフェーズの深化やその先にある欲望の遮断といったものからも すっかりまるっと自由であるというのが、ありのりの最大の特徴であり、 その、恋物語として不自然でさえある継続的で交換可能な「新しさ」だけで、 ずっとこれまで視聴者を十分に満足させることができているのだ。 ある意味革命的だ。 つまり、ここには、「主人公は交換可能である」という裏ロジックがあるに違いない。 たとえば、出だしは面白い少女漫画が段々つまらなくなったりするのは、 いくら多様な人格や主観をひねくり出して関係性をつむいだり組み替えたり していってもいずれ「ネタ切れ」が生じてしまうという宿命からは なかなか逃れることが困難だという事実のあらわれで、 勿論その中で、その事実に挑むということの価値もあるのだけれど、 そういう作品も含めて、多くの漫画やアニメがいまだに決定的なものとしているのが、 「登場人物は有限である」ということなのかもしれない。 だがあいのりの場合は違う。あいのりの登場人物は、無限数なのだ。 自分の頭の中だけで考えられるキャラクターには限りがあるし、 世界観の強度を保つためには登場人物をころころ変えてしまうことは不利である。 だがドキュメンタリードラマには、キャラクターの選定はあっても、 キャラクターをいちから創造する必要はなく、さらに映像に映される現実の風景等によって 想起される括弧付きの「現実世界」という、申し分のない世界観がある。 そういう意味で、あいのりは、「サンプリング」による物語生成の効果を 最大限生かしながら、恋愛ストーリー既存の決定性を悉く打ち破っていく 驚異的なメディアなのだと言える。 というのも、あいのりを見ている私たちは、「登場人物個人の恋愛の機微」 そのものに関心があるのではない。それが劇的なかたちで編集され、さらに 次から次へと焦点が移ろい、登場人物が入れ替わり、そういう「サンプリング」 の部分こそ私たちが興味するものの対象の正体であるからだ。 もっと言えば、登場人物たちの恋愛模様を、ひとつメタな視点から眺めている 「まちゃみ、ウェンツ、今田兄さん」の存在さえそこでは疎かにできない。 彼らは、決して、「視聴者の側にたっている人たち」ではなく、 あくまで「あちら側」にいる人たちなのである。 私たちは直接恋愛ストーリーを受容していると同時に、彼らのリアクションをも 含めてその恋愛ストーリーを補填、或いは完成させている。 日本のテレビ界にはそういう仕組みをとっている番組が多いが、 コンテンツの純粋な受容ではなく、「受容の仕方の受容」「リアクションへのリアクション」 というような側面がそこにはある。 このメタ受容の構造を取り出して楽しもうとしているのが、ニコニコ動画である。 同じ動画アップロードシステムでも、ニコニコ動画がYou Tube等と絶対的に 差別化される要因はその部分である。 You Tube系の単純な動画アップロードシステムにおいて(最近はもう単純でもなくなってきたが)、 ユーザにとってもっとも重要なものは、コンテンツそれ自体の強度である。 「新しさ」「面白さ」「懐かしさ」等なんでもいいのだが、 とにかく動画それ自体が受容の対象になっていなくてはいけない。 それに対してニコニコ動画は、そこに追記されるコメント=リアクション込みで その動画を受容する。 それは、コンテンツとなる動画の強度は低くてもいい、ということではなく、 勿論上質のコンテンツに対してはコメントも盛り上がるのだから相乗効果である。 だが、とりあえず、いずれにしても、ニコニコ動画で「コメントにw」という状況はざらだ。 つまり、振り返ればこれはテレビのシステムと同じで、 「ネタ」に対しての「突っ込み」に笑ったりすることと凄くにている。 しかし、ニコニコ動画の真の面白さは実はその先にあるのではないかと思う。 つまり、単純に、コンテンツに対してコメントがついて、その両方が面白く、 或いはその相乗効果によってコンテンツがさらなる強度をもったものとして受容される、 ということだけではない気がするのだ。 ニコニコのコメントシステムの興味深い点は、ひとことで言えば、「非時間性」にある。 そして、それこそは、実は正に2chでユーザが実現不可能であったことでもある。 ではそれはどういうことか。 2chは、言うまでもなくひとつの掲示板である。 掲示板には例えばある議題が登録され、それについて様々なユーザが返答していく。 同意、反論、返信、様々な形態が想定されうるが、いずれの場合も、それが議論の「流れ」になっていく。 逆に言えば、その「流れ」を無視して好き勝手に登録された発言というものは、普通にスルーされるか、 せいぜい「なんだこいつ」と思われる程度のもので、掲示板の中身=コンテンツの本質的な部分には、 あまり強い影響を及ぼすことがない。 それが、「実況板」のようなものになってくると、話は少し違ってくる。 例えば、テレビでやっている『風の谷のナウシカ』を観ながら、ユーザは思い思いに掲示板にコメントを書き込む。 そこには、「話しているもの(ネタ)」と「話されていること(コンテンツ)」とが 乖離しているという奇妙な現象が起きているわけだが、 その結果、ここで注目したいのは、ユーザが、「掲示板の議事の流れを追って次のコメントを書く」のではなく、 「議事=コメントの集積やその流れとは別の場所にある何かについて発言していることが、 (ここが重要なのだが)結果そのまま時制順に並んでいる」ということなのだ。 つまり、そこには、掲示板の機能上、コメントがひとつひとつ、登録された時間軸に沿って、 個別に表示されているだけで、コメント間の連関というのは極めて希薄なものである。 ユーザは、自分が観ているものに対してコメントしているのであって、 前のコメントに対してコメントしているケースは多いわけではない。 ましてや、実況板のように、毎秒数件ペースで書き込まれるような掲示板では、 そもそも「流れ」を作ったり、追ったりすること自体が不可能だと言ってもいい。 それは、いつも、「結果としての」流れ、或いは、「偶発的な現象としての流れ」 であるわけだ。 だが、しかし、ここで考えてみたいのは、たとえば実況板のようなものを想定したとき、 そこでは、「時制に沿って表示される」ことが寧ろ足かせというか、言ってしまえば、 できればない方がいい機能・システムなのではないか、ということである。 はっきり言って、実況板の目的は、ネタ出し系や議論系の掲示板のそれとは、まったく別物だ。 そこは、コメントに対する「反応」、ではなく、どこか別のところにあるものに対する「反応」を書き込む場所なのだ。 だが、その「反応」は、掲示板に書いている限り、語られているものの文脈と重ね合わされるものではない。 二つは同じ表象の中で同居することができないのである。 それを可能にするためには、コメント自体が登録された時制をいったん破棄させ、 すべてのコメントが、その語られているものの文脈の上に溶け込んでいく必要がある。 時間軸に沿った「垂直的な」羅列ではなく、 話題となっているものに対して「水平的に」表示されるようなシステムを作る必要があるのだ。 流れのないコメントを上から順に追っていくことほどつまらないものはない。 実況板の面白さは、寧ろ、同時間的に様々な人が様々なコメントを投げあう、 ということの方なのである。 そこで登場するのがニコニコ動画だ。 これは言わば、マルチメディア化された実況板なのだ。 実況板では乖離していた、「アクション=対象」と「リアクション=反応」とをひとつの表象面に統合し、 さらに、映像自体の時間軸にコメント表示を依存させることで、 コメント自体が投稿された時間というのが、事実上無化される。 掲示板でみられるコメントの「時間的な厚み」は、 ニコニコ動画では、「空間的な厚み」として把握され、 コメントの高揚をよりわかりやすく可視化できるようになった。 最近ではこのように、ネットワーク上でのコメントの無時間化が進んでいる。 かつて、ネットワーク上で様々なものが、コンテンツとしてアーカイヴ化され出した頃、 過去のモノと現在のモノとが、時間的な隔たりや制約なしに、 ほとんど等価的に閲覧でき、時制を行き来できた(或いは時制それ自体の概念がかわってしまった)が、 ニコニコ動画やソーシャルバナーをはじめ、近頃では、 「ユーザの肉声」もが積極的にアーカイヴ化、無時制化されつつあるようなのだ。 しかしそうすることでようやく、投稿日時という制度から自由になった発話が、 ニコニコ動画では、語られているものの文脈と密接な連関を持つことができている。 しかし、それは、実はやはり「テレビ」に傾倒しているものに違いないのだ。 ニコニコ動画の構造は、コメントが視覚的か聴覚的かの違いはあるにせよ、 テレビのスポーツ中継や、ナレーションとほとんど変わりない。 いや、言わば、そういうテレビの中に潜む制度が、ニコニコ動画のユーザの中にも 確実に内面化されているわけなのだ。 だが、そこで決定的に違うのは、先ほども述べたように、テレビでは、 「反応する人」が画面の「あちら側」に属していたのに対して、 ニコニコ動画では、コメントを追記するあらゆる人がこちら側に属し、 ともすれば、映像を投稿する人さえも、こちら側に属している、或いは属しうる人なのだ。 勿論、テレビにも昔から「視聴者からの投稿ビデオ」などといったかたちで、 CGM的なコンテンツの構築というのはありえたが、 それに対する視聴者の個人的な「反応」「リアクション」までもが、 ソーシャル化されることはこれまでいっさいなかったと言っていいだろう。 従ってニコニコ動画は、個人的なリアクションが、コンテンツ生成の一端を担い、 さらにソーシャル化もされるという、以前では考えられなかったようなメディアであるのだ。 ■
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by tajat
| 2007-11-23 08:16
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