カテゴリ
以前の記事
2008年 05月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 03月 検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
1
この夏、日本絵画の作品に触れる機会が二度ほどあった。一つ目は上野の博物館で開催されていた「伊藤若仲と江戸絵画展」と、もう一つは、京都に旅行に行った際に見た、南禅寺の屏風絵である。そのふたつについて、リンクできる部分を書きたい。
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060616102156 □ 江戸絵画のふたつの逆説的手法 □ 「背景を描かないままにしておくことで逆説的に奥行きを想像させる」という手法は、雪舟が日本風にアレンジしたときの水墨画の構図が影響したものだろうか。それが江戸時代に至るまで継承されているかのように思える。たとえば人物や動物が単体または少数で主題になって描かれている掛け軸などは、すべからく背景に「空」が用意されている。それは一方で主題としての対象の平面性にも関与する。 伊藤若仲が描く動物も、例に漏れず平面的だ。レイヤーごとに色彩の濃淡がない、といった様子で、一躍有名になった「鳥獣花木図屏風」にしても「群鶏」などの動物画にしても、背景のあるなし関わらず、主題が極めて「ベタっとした」印象を与える。それは文字通りモザイクのように、観賞者の視線が奥へ奥へと侵入することを頑なに拒んでいるかのようだ。視線は表面を漂い、非可逆的に対象の裏面は想像されにくくなる。 他方、その背景の抽象の問題とは別に、主題の非収納性を用いた手法がある。これは換言すれば、主題となる対象の全景がフレームに収まっていないことを指す。ルネサンス期を中心とした伝統的な西洋絵画では、対象は文字通り枠を捉え、その全体像が可視的に把握できるようになっている(ひとつの理性のかたちの表れだ)。しかし、たとえば狩野派の襖絵(いくつか南禅寺で拝観できる)などを見てみると、松や竹がフレームを完全に逸脱しているのが理解できる。 つまり、「主題が枠を突き破ることによって逆説的にフレームの存在を際立たせている」のだ。フレームの外側は観賞者の想像力によって付け足されるが、それより以前に、主題の「(西洋的には)不自然な」途切れが、逆に屏風の枠の存在を誇張しているかのようだ(参照:上記リンク内の「紅白梅図屏風」)。興味深いことに、この非収納性の手法を知った印象派画家たち(ゴッホやマネら)が一部の作品においてそれを自らの作品において実践している。 伊藤若仲と江戸絵画展では、大屏風画にあてた照明を数十秒スパンで変化させ、作品の「見え方」を徐々に変えていくという展示方法がとられていた。これは寧ろ、絵の「ただしい」肖像をとらえさせるよりも、その「歪み」自体を読み取らせようとする企図である。これがなかなか面白かった。 ■
[PR]
▲
by tajat
| 2006-09-06 10:10
| 美術
もうギャル文字も古いらしい。そもそもギャル文字は、ギリシャ文字やら記号やらをひらがなに見立てて使った文字で、それはあたかも、平安国風文化で漢字から平仮名を作り出したプロセスに酷似していた。「そんな高尚なものであるはずがない」と言う人もいるだろうがだいたい国風文化自体が凄く俗っぽいものではなかったか。野蛮と文明とは紙一重なのだ。今ではピアスや刺青は野蛮に見えるが、それらはもともとは文明や文化の起源でもあったのだし。
今度はギャル文字に代わって、絵文字だけで文脈を構成するメールが流行っているらしい。「校舎」「走る」「マイク」「手」「手」みたいな感じで絵文字を並べていき、「学校終わって今からカラオケ行くから待っててね」みたいな意味を構成するそうだ。文字は一切使わない。これは正に、言語学や記号論でいうところの、意味と形式とが究極に一致したかたちだ。つまり、きわめて原始的な意味記号の使用方法だと言える。これらは象形文字や洞窟に書かれた絵文字を連想させる。 もちろんギャルたちは後衛でも前衛でもないが、現代において新たに見出されたかにみえる方法が、極端にプリミティヴであるという逆説が生じている。座り込みという行為も、見方によれば凄く前歴史的な姿で、それを野蛮だとか思っている人間はただいわゆる「文明化」した、経済的で産業的な見地から見ているに過ぎない。 しかしだからといって別にギャルたちを擁護しようという気があるわけじゃない。文明の問題ともリンクするが、やはり「マナー」に対して断固決別するような態度をとっていることは凄く無様で、ギャル文字を含めて想像力に富んでいるような部分もあるが、どうしても短絡的であるように感じる。とはいえまた始めの立場に戻るが、ギャルたちをそうさせる心理学や行動学もいいが、やや純粋な意味で、起きている現象だけを眺めてみるのもまたいいかもしれない。<オタクという現象>もこれと同じような視点で分析してみるのもいい。 ■
[PR]
▲
by tajat
| 2006-09-06 03:26
| 時事
1 |
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||