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憖っかケージの著作を読んでいたりすると本当に斜め後ろの席のおじさんが鳴らした喉の音が舞台上のヴァイオリンとヴィオラの音に混馴してチェロの低音のように聴こえてくるんだから不思議だ。何を思うかによって、世界の見え方は多分に変わってくるわけです。雑音すらもメロディであるのだと能動的に思い込む(或いは順音すらもノイズに還元/換言してしまう)ことそれ自体よりも、その思考が脳の感受の枠組みを変化させて、実は受動的に「そう聴こえてしまった」時の方が断然、人は「ハッ」となるんだと思います。
超をいくら重ねても足りないくらい、世界的にも名高いアルディッティ弦楽四重奏団の演奏はこれぞ正しく洗練されているという言葉に相応しいもので、椅子に腰をかけ楽譜のページを整え楽器に左手をかけて弓を持った右手がスーッと上がった瞬間の、あの雲一つない完全な沈黙、埃一つない完全な沈黙、息を殺した観客全員の集注度がひといきに高まって、注視の持続の波がぐああああっと凝集され硬直してしまっている一方で、あの弦楽カルテット=マジコたちの姿勢は、まるで柔道家の構えのように、力が一所に凝り偏っておらず、身体のあらゆる箇所に均等に配分され充満しているような柔<やわら>のポーズだった。 久々に充実感をもって、「空間に」お金を払っているという気がした。耳は輝き、眼は峙つ。五感の全部が触覚的になる。ライヴとは多分そういうことだ。或いは身体がまるごとひとつの耳になる。ヴァイオリンを持った経験はないけれど、おそらくピアニストよりも遥かに弦楽奏者は聴覚と触覚に敏感でなくてはならなくて、なぜなら鍵盤は飽くまで断続音で、一方弦は完全に連続音だからである。音程は無限にあり、より正確を期さなくてはいけない。高校時代のオーケストラ部の顧問(彼は名のある指揮者だった)は、「今より2mm高く」などと“糸に針を通すような”ことを言っていた。今思えば、伊達に「や〜〜ま」とか言ってないなって思った。「ド」という単音の中に「ド・ミ・シ♭…」など様々な音程の概念が細分化されて聴こえるようになるには、相当な耳の訓練が必要なのか。それとも幼少期からの体験がものを言うのか。いづれにしても、修得される言語の多様さが感情を細分化するように、眼も耳も、概念の量によって見え方や聞こえ方が変わってくるらしい。 今かなり旬な白井剛のダンスは、クラシックとのコラボレートということもあってか、密度も激しさも普段より大分薄めてあったようだったし、背景で流れていた映像も三者一体化するにはあまりに不調和だった(かといって逆にそれが狙いでも明らかになかった)。しいて言えば浮遊する銀の風船のメタファは意味的にも面白く、加えてそれが持つどこかスペイシーで現実離れした形態も、舞台の上で効果的に作用していた。楽譜に書き込まれたメロディを最良の形で再現することにアプローチしていく演奏者の収束した意志と、ある種理解を拒むような不条理の予測不可能性を持ったダンサーの散漫な恣意とが、ケージの雑音と順音の浸透性を背景にして、空中を彷徨う5つの遊離物のように、量子学的な決定論の必然性と、カオス理論のContingentな不安定さの挟間で、文字通り拮抗したり揺れ動いたりする様は、「定義することは殺すこと、暗示することは創造すること」というマラルメの言葉を優雅に思い出させる。 演目 □大フーガ 変口長調 作品133/ベートーヴェン □花の妖精—弦楽四重奏のための/細川俊夫 □弦楽四重奏曲 第2番「光の波」/西村朗 □44のハーモニー/ジョン・ケージ 「花の妖精」はローザス・カンパニーのフィルム『Counter Phrases』に使われていた曲ですぐにピンときた。非整数倍音と喋音との間を行き来するような音源は、よく聴くっちゃあよく聴くんだけど、今回はライヴということで、注目したのは音質の方よりも寧ろ演奏する体の動きや楽器の使い方といった視覚的な要素だった。ヴァイオリンをある種打楽器的に用いたその演奏の動作は、断続的で、瞬発的で、例えば光学センサに指を通過させて音を出すような機械音学の演奏ポーズに近似していた。けれど完全に同一視できなかったのは、余韻を響かせる為の弓の運びがそれでも「滑らかさ」を忘れていなかったからだったような気がする。 ■
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by tajat
| 2006-09-02 18:14
| 音楽
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