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喪失の、あるいは不在の話だった。また題名からもうかがえるように、それが変換され、ずれながら繰り返されて行く。青年団『砂と兵隊』とテーマが近似している。
言葉を探す者、自分探し、独身者、猫がいなくなった。喪失とは、失われたものが求められることで初めて浮上してくる概念だ。それゆえ、発見とは喪失の死である。この話に登場する人物は、それぞれ彼等にとっての喪失が言わば生殺しのままで宙吊りにされているから救いがない。喪失は喪失のままで解決しないのだ。では、あの、薬によって生かされ続け、「終わりの来ない生の瀬戸際」に横たわっている病床の母親はいったい何を望むだろうか。そのような「完璧な生」「人工的な生」は、寧ろ死を、つまり大いなる喪失を望む。そして彼女は、舞台の裏側では、例の、何も望まない、充実や充足の(つまり非-喪失の)暗喩でもあるようなあの剽軽な警察官の母親と結ばれている(同じ役者さんによって演じられている)。よく錬られた構成である。 しかしこれだけ聞けば救いのない物語も、観た印象としてはとても悲しいお話のようには感じられない。悲しくもないが、だがにこやかにもなれない。悲惨ではあるがどこか痛快でもあり、断章的なんだけど不条理とかナンセンスとまではいかず、部分的にはすごくうなずけるし共感できる台詞もたくさんある、といった具合に、なんだかつかみ所の無い感想になってしまう。それは多分、あらゆる種類の感情のパッケージ化から逸れようとするような、非常に理詰めの作為によって作品がつくられているからだと思う。アフタートークで佐々木敦さんが言っていて面白かったのが、「単に下手だからぎこちないだけなのか、遥かに上手すぎて自分のフィルターにかけられなくなっているのか、わからない感じの作品」ということだった。 多分、満たされないのは物理的な物の喪失だけではないのだ。ちょっとした台詞のやりとりも、どこか不自然に食い違ったり、人と人が、交わらずにすれ違ったり、自分の想像によって相手を染色しながらずれ合ったり、手にしかけては手放したり、そうやってずっと、息継ぎなしに、浮遊し続けるパレード。「持つもの」が、それでなくてもいい、交換可能だとわかった瞬間に、急に「持つこと」が希薄になることの滑稽。成就することのない同性愛、いや、同性愛にまでいかない何かよくわからない関係。母親を、「本当は殺してほしい」とも「なに連れ去ろうとしてんだ馬鹿野郎」とも思う感情の脈絡の断絶。そういった、合致のしなさ、白黒のつかなさが、この作品を妙なものに仕立て上げているし、そこが凄く不和を掻立てて面白い。 喪失を作り出した、不在となるものの最初の原因になった存在=「親」がまず居たとすれば、この作品の中でその「親」は、果敢に、且つ自在に否定される。「喪失を埋めるものは、ただひとつ、失われたその当のものである」という唯一にして絶対的な公式の支配を逃れるようにして、この作品の中で、喪失されたものはことごとく交換可能なものにシフトしていく。いわばこれは“親殺し”の話である。つまり、アンチ・オイディプスなのだ。すごく現代的な感性だとも感じるし、作品を作る上での理性もそこに起因しているように思う。久しぶりに「うーん」と唸る様な後味でした。
by tajat
| 2007-09-23 05:29
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