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今日渋谷のまちは普段よりも人工的になった。曇天に黄砂が舞って空がラバーのようにまったいらだったせいだ。たとえばカメラで建物や人物に露出を合わせようとすると、それに伴って背景の光が飛んでしまう。あるいは高感度のフィルムだと余計にそうなる。すると濃淡があった空も、べたっと真っ白くなったりする。曇天だとなおのことだ。背景が文字通り無化されるこのような効果を意識的に使ったのは、ベッヒャーや北島敬三のタイポロジカルな写真だった。だが写真でなく、肉眼で濃淡のない空を見るのは実に奇妙な体験だというふうに思う。そしていつもに増して「サイバー」になった渋谷宮益坂をあがって、歩道橋を渡り、小洒落た外観のスタバの手前を右折して、久々のイメージフォーラムに入る。待ち合わせをしていたMさんとその恋人と一緒に三人で、ツァイ・ミンリャン監督『黒い眼のオペラ』を観た。
□ ショットの大河 少なくとも二枚以上のフイルムの連続した運動から構成されるものを普段「映像」という風に呼んでいる。フイルムが集まってカットができ、カットが集まってシーンができる、といった具合に、ある種文章のように(こう言うのが適切であれば)物語が現出する。だが決定的に異なるのは、文字と違って映像は時間そのものだということだ。それは流れとも歴史とも言い換えられるかもしれないものだ(菊地成孔の『時間について』という音声を思い出した*1)。文字が「流れ」始めるためには(われわれが「読む」ためには)、文法や読む順序といった外付けの法則が必要であるが、対して映像を「見る」のことの支えになっているのは、単に流れ去るものに身を任せるようなもっと内的な方法である。ひとつのショットの時間には、はじまりと、おわりとがある。ひとつのショットから、別のショットに切り替わってから、何かがはじまって、何かが終わる。それはシーンというレベルにおいても、映画全体(そういうものがあるとすれば)というレベルにおいても同様だ。運動している。時間が経過していて、始めと終りとがある。 システマティックな起承転結や、もしくは推理小説の伏線のように、後に続くカットやシーンの展開を意味付けたり、それの手掛かりになったりするとき、ショットのひとつひとつ、はじめとおわりとによって切断された出来事=部分は、全体の構造によって機能が規定される。久鬼周造の言葉を借りれば、その場合ショットは映画と「有機的関係*2」を結んでいるのだ。だがツァイ・ミンリャンの映画は、これと反対に、部分の無形的な集合によって成立している。部分は全体と、「機械的関係」しか結んでいない。あるショットとショットとが、一本のレールに結ばれた駅と駅のような関係におかれておらず、かといって、ミステリーのように、考えうる何本ものレールが錯綜するように走っていて、鑑賞者が混乱しながら展開を追う、とうい感じとも違う。駅はあるが、それを結ぶレールの存在が欠如している。ほとんどサスペンションのような状態に、いくつものショットはぶらさがっている。ショットのそれぞれは積極的に集束するための「語られるべき物語」が見失われているかのようで、互いに触れるか触れないか、重なるか重ならないかという極めて微妙なところで揺らめいている。それは寄せては返す海ではなく、流れた分だけ大地を削る河だ。 ツァイ・ミンリャンのフイルムはまず圧倒的に台詞が少ない。…店主が中華鍋を振る。それを客が眺める。…車がライトをつけて走っている背後で、若人達が布団を運んでいる。小規模な叙事の連立。そんな調子のフイルムには「脈絡」という言葉が似合わないし、人物相関も曖昧にできている。東南アジアのじっとりとした湿気と空気感の中で、或いは、土煙の中で、視覚が鈍くなった瞬間のあの掻き乱されるような触覚の開放感の中で、熱気の中で、かれらの「生活」の断片が切り取られ、そしてどこまでも切り取られたままになっている。登場人物は互いの名前さえ呼び合わない。どの人物がどの人物と同一なのかということすらわからない。けれど、実際、映像というものは、本来はそんなことはわからないのだ。こことそこの場所が連続しているとか、このシーンの後にこのシーンはあるとか、そういったことは、単なる光の表層である映像からは判断できない。事実、映画の撮影はシーンやカットの順番どおりに撮るのではない。「映像は撮影された瞬間に死ぬ。けれど再び編集によって別の生を生きる*3」というようなことを言っていたのはゴダールだ。ようするにそういうことなんだと思う。そして一旦ばらばらになったものをつないでいるのは、想像力とか、音楽とか、そういった「不定形なもの」に違いない。 後半に、登場人物のひとりの男が、廃墟から居なくなった別のある男の後を追ってやってくる。男は涙を流す。追われていた男はその頬に手をあてがうんだけれども、その先は映されない。するとそのすぐ直後のカットで、その同じ場所に女がやってくる、しかも男の腕に抱かれる。映画を観る者の時間としては「直後」だけれど、物語の中では、それがいつなのか、本当に直後のタイミングで、実はその奥の暗闇の中にもう一人の男がいるのかとか、或いはシーンが前後しているのか、はたまた、どちらかがどちらかの幻想なのかわからない。それはどちらでもいい。ツァイ・ミンリャンの映画は、互いに有機的なつながりを断たれたショットの群集であり、脈絡や、同一性や、経緯といったものから自由に見える。寡黙である。しかも説明することのために、語らない、それが凄く瑞々しい映像の集積を生んでいる。ラストカットは、じっとりとした湿気からも、鬱陶しく乾いた砂埃からも遠い、あまりにも静かで、あまりにも豊かな水の揺り篭で、そのはじまりからおわりのまでの時間は、この映画のカットの中でもっとも永く、本当に永遠のように感じられるような、頼りない「生活者」の、幸福の調べが漂う。 □ 音を、読む、ことの苦痛 この映画を僕の隣りで観ていたMさんは、ツァイ・ミンリャンの作品を沢山見ていて、監督の使う音(音の使い方)が非常に好きだと言っている。モーツァルトが流れたかと思えば、ラジオが流れたり、路傍で老夫婦が弾き語りをしていたりと今作は静かに密かに「ジャンク」。特にラジオからの音が(イン・アウト・オフすべてに渡って)多用されている。どうしようもないと言えばどうしようもないのだが、残念なことに、パーソナリティやアナウンサーの声であったり、ミュージックであったり、それには必ず「字幕」がつけられるのだ。しかしこれは、普通の字幕とは違う。文字が宛がわれているのは「台詞」ではなく、あくまでも「声」であり「音楽」である。 舞台がマレーシアだから多分マレー語だろう。声にせよ曲にせよ、普通に聴いたら当然僕は意味はわからない。意味がわからない音声は言語ではなく、もう殆ど環境音の一種として聴こえてくるが、それを文字として解説してしまう字幕は、あまりにも「意味としての言語」が顕現させすぎてしまう。文字は平面的であり、空間的なもの、つまり相対的にみれば無時間的であるからだ。 たとえば、日本人が日本語の曲を聴く時、意味を抽出して聴いているわけではあるまい。もちろん歌詞に集中して聴くことはできるが、メロディやリズムに象徴を込めることはできても、それ自体は本来的には意味的なものからは遠く、もっとノイズに近いものだ。この映画を現地人が字幕無しで観る際には、歌詞の意味はおそらくもっと「不鮮明に」聞こえている筈だ。だがわれわれが字幕を通して「音を読む」ときには、それとは随分違って、もっと意味性が純化されて入ってくる。男女が並んだショットで「君がいなくなったら、僕は黒い海の底に…」という字幕が付与されれば、いやでもそう関連付けさせられてしまうし、男女が砂埃舞う街の裏路地の暗闇の中へと消えてゆくショットに、「土煙の中でも君を探し出すことができる…」という文字は、あまりにその行為を神秘化しすぎるだろう。文字によるその誇張は、この多義的なフイルムにとっては寧ろできすぎの武器ではないか。 □ 綱引きの視線 「1、2の、3、カネー!」と言って振り翳す手の運動。往来する車。釣り糸と竿から連想される上下運動。男性器を女性が、女性器を男性がまさぐる手の動き。ラストショットの、画面上部から下部への神々しいたゆたい。更にもっとも顕著なのは、中二階の物置の床面にできた僅かな隙間から若い女が下の部屋を何度か覗き見る視線の向きと、その上からのみ一方向的に下へ注ぎかけられる(下にいる女主人は上を見上げない)その視線を完全に逆流させ、覆す、老人の激しい凝視。こうしてツァイ・ミンリャンの映像の中には、頻繁に、垂直方向または水平方向の、直線的な往復運動があらわれる。『Hole』(1998)には、下の階に居た人間が上の階の床にあいた穴から引っ張り上げられるというシーンがあるようだ。 作品世界が持っている雰囲気みたいなものは、例えばホウ・シャオシェンのフイルムとも共通する部分があるように感じるが、運動の仕方はまるで逆で、ミンリャンの線分はシャオシェンの「曲線」とは対照的だ。それから、高橋陽一郎監督・岩松了脚本で『日曜日は終わらない』(1999)という映画があるが、これとも雰囲気に近いものがある。シーンやショットが単発的で、浮かんでは消え、消えては浮かぶような、凄く強度としては危ういし脆いんだけれども、ひとつひとつが繊細であるような構成が共通する。けれどこれともやはり何かが対照的である。『日曜日~』の世界は、水平的な広がりが強い。山の上の建物の屋上があって、半分以上に空が見えるから、すごく画面が開けている。突き貫けた視線の先にはそこから街や海の方にまで拡がった風景が見渡せる。或いは、土手の下に置かれたカメラには、登場人物の後ろに空が映る。水はせき止められることなく水平線まで続く。他方で『黒い眼のオペラ』のカメラは、全くと言っていいほど上を向かない。殆ど角度は水平よりマイナスで、俯き、空の映らないまちを鬱屈とさせている。階段も、フロアも、街も、見えているのは床や地面ばかりである。実際、ベトナムやタイなどの市街地に行くと、建物の階数は高い割りに道は狭いから、路地裏に行くと本当に空が見えなくて、閉じてる、とまではいかなくても、ちょっとした迷路に閉じ込められているような感じがある。それを少し思い出しました。 しかし、ツァイ・ミンリャンの画面はただ単に「下へ」というだけでないところに注目するのが肝心だ。さきほども、視線の逆行というようなことを言ったが、老人が見上げている姿をとらえたショットも、決して煽りではない。水平に寝転んでいる人間の眼をとらえようとすればカメラは必然的に水平方向よりやや下にレンズを向ける必要があるわけだが、カメラは(或いは、カメラがとらえた老人の顔を見る私たちの眼差しは)下方に向けられているにも関わらず、映された対象の視線は強烈に上方へ向けられている、という逆転がある。その次のショット(これはラストカットにあてられている)でも、カメラは同様に下向きで、けれど、映されている水面が鏡になって、結果として見えるものは、水面から上を見上げた景色になる、という逆転が生み出されている。そういった潜在的なギミックが、人間の死とか、勝利や幸福などといったストーリーの展開云々とはまったく異なる意味において、非常「劇的」であったりするのだ。 ■ ・*1 「時間について」『Degustation a Jazz 』、菊地成孔、イーストワークスエンタテインメント ・*2 『「いき」の構造』、九鬼周造、岩波文庫 ・*3 『ゴダール 全評論・全発言』、ジャン=リュック・ゴダール著/アラン・ベルガラ編/奥村昭夫訳、リュミエール叢書
by tajat
| 2007-04-15 03:13
| 映画
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