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□「解釈の余地」という匙加減
まず「理解する・解釈する」という、観客なら誰しもが肖りたい安全圏の足場をどうしても疑わせずにはおかない。ひょっとこ乱舞の観劇は、そういう地点から離陸しなきゃいけない(けれどそういう地点に着地してはいけない)。例えば、登場人物の「土屋ミヅキ」は結局なんだったんだとか、あの男三人は同一人物だったのか、というようなことが「理解された」ところで、おそらくそれはこの物語“全体”の印象にほんの一部しか加担していないのだし、もしも「解釈する」ことが、幾らかの観客にとって演劇を楽しむことの“全て”であるのならば、それは本当に憂うべきことなのだと思う。かと言って、「全部はわからない、だけど面白い」という場所に行き着く為には、本当にその匙加減が難しい。分かり過ぎてはつまらない、けど、分からな過ぎてもつまらない。観客は、我侭なのだ。そういう舌の肥えた観客が、作家を育てるというものだ。 当然だけれど物語にはストーリーがある。けれどひょっとこ乱舞のストーリーは、おわかりの通り、直線的に積み重ねられてゆくものではない(だからこれはミステリーや推理ものではない)。画一的なストーリーのシンタクス(統語体系)を、解体し、脱臼し、多元化することによって、「読みの可能性」を敢えて残す営為/痕す鋭意が、そこには込められている(そこが匙加減の難しいところでもあるのだが)。決して切り離せない、内容と方法、意味と形式の微妙なバランス/アンバランスの内にそれはある。そういう意味では、深読みするよりも、音楽やダンスに身を「共振」させる感覚に近いのではないか。 そういう「共振」を誘うのは、群舞だったり(アゴラであの群舞を遣って退けるのはおそらく後にも先にも彼等だけだろう)、浮遊感のある吊りものだったり、赤い風船のバレーだったり、伊東沙保の駆ずりだったり、笠井里美のちょろまっかしー動きだったり、キレのいい音楽や照明だったり、足音だったり、小道具だったり衣装だったり、そういう「記述されないノイズ」、つまり、前意味的でありながら、観客の知覚の中に確実に印象として滑り込む、いくつものアイテムの戯れである。おそらく、作家/演出家の広田淳一のやや女性的な嗜好が、そこに鋭敏に反映されている。彼は、「男性としてはキングだが、男子としてはバイ」だと勝手に思っている。ということで今度から彼のことは「バイキング」と呼ぶことにしよう。わーーー帆を揚げろーーー。 □戯曲と演出の位相、未だ疑われていない「身体性」 『旅が果てしない』『無題のム』『水』そして今回の『でも時々動いてるわ』、これらの戯曲には、身体/言語/空間の流動性が共通して描かれている。身体と精神の乖離、そして遊離、群読(主体の埋没)、可逆性、誤配、言葉の伝搬、残響、記憶の不確定性、空間の多層的な演出。例えば、赤ん坊は言葉を持っては生まれてこない、言葉は誰かから借りてくるもので、同時に自分の言葉はまた誰かによって借りられていく可能性を常に孕んでいる。人の仕草はうつったりするものだし、口から入るものがやがて汗や尿や便になって出ていく。それと同じように、精神や記憶自体も肉体から飛び出し、彷徨い、錯乱し、書き換えられ、時には誰かの元へ間違って届けられたりもする。そういったことによって提示されているのは、人間の“固有性=同一性”への疑いだ。結局自己を見出すということは、そこにいくつもの他者性を発見することと等しい。そう、それは確かに「戯曲の上では」そのようなことが言われている。 けれども、演出の段階、つまり役者の身体性においては、そういったことの体現は、凄く「役者間」に留まっている。その理由は、ひょっとこ乱舞の芝居においては、圧倒的に「身体が勝<まさ>っている」からだ(そういう意味では野田秀樹の舞台もそうだと言える)。身体⇔身体としての交感はあるが、身体と空間との間で交わされるコミュニケーションが、ややもすると乏しい。身体(自己)が空間(他者性)に働きかけることはあっても、空間(他者性)が身体(自己)に働きかける契機がないのだ。少し換言しよう。私たちは普段、全ての行為や意思を、自分の意識(自己)の働きや実体を伴った他者からの働きかけだけで行っているわけではない。例えば、お寺に行ったら背筋が勝手に伸びるようだ、とか、深夜のクラブにいると肉体がおっぴろげを求める、だとかいう具合に、外的環境(気温、雰囲気、雑音、触覚、場所性、などといった他者性)からの働きかけによって、自己の行為が無意識的に発露/督促される場合がよくある。けれども、ひょっとこ乱舞の役者の身体性は、言わば、「外部装置に対して余りに自己主張が強い」ために、空間が役者の意識に入り込んで役者を動かしはじめる、というような余地がない(ように見える)。あらゆる行為、あらゆる発話が、なにか役者の身体の“芯”から却って出過ぎてしまっている。これはモノローグでも、ダイアログでも、同じことが言える。 広田はhpの中で「躍動する身体」みたいなことを言っているから、当然ではないか、という風に納得しかけるのだが、そうとも限らない。広田自身も述べているように、なにも「踊って歌ってジャンプする」身体性だけが、躍動しているわけではないのだし、例えば彼も「青年団」の舞台を観て、そこに「躍動する身体の顕現」を発見している。けれどもおそらく、ひょっとこ乱舞の身体性と青年団の身体性とを比較した場合、決定的にズレている位相は、この「役者の身体に滑り込む他者性/空間性」だ。伊東沙保の独白でも、たわいない会話の場面でも、ラストシーンでも、とにかく役者の身体と言語が、余りにもイニシアチブを持ち過ぎている。役者の身体なり言葉なりから滲み出てくるものは多いし、それが空間を染めている部分も大きいのだが、役者の身体自身が空間(装置・温度・観客の息遣い・照明といった外的環境の総体)に染められて、それが発話や行為を突き動かしたり、ぶらつかせたりするということがない。それは単純に、役者の身体が外的環境に対して意識を開かないからであり、殆どのきっかけが機械的に決められているからでもある。(例えば「感情が追い付くまで発話するな」と言うときでも、それは完全に自己か相手との関係性の問題であって、「空間の雰囲気を感じろ」というものではない気がする) しかしここで注意しなければいけないのは、例えば「空気を読む/感じる」ということが観客に伝わるというのは、凄く恣意的だということだ。何をもって空気を感じとっているのかということが、凄く曖昧である。からして、よく陥りがちなのは「とりあえずの間」「沈黙」といった手法をとることだ。この野田秀樹言うところの「つもりの間」を避けながらも、どう空気に鋭敏な身体を作るあげることができるかどうかが、一つ今後は見物だと個人的には思っている。(ごくごく稀に野田秀樹も最近は「ぐっとくる間」に自己陶酔しているらしいww) □ひょっとこ乱舞の少年性/少女性 ひょっとこ乱舞の(戯曲が求める)役者は、尽く少年性/少女性に溢れている。それは先程にも言ったように、広田自身が演劇に対して今もまだ「現役男子」だからだ。戯曲のテーマにも、「願い」や「希望」や「跳躍」といったように無垢性を連想させるものが多く、その「遠くへと手を伸ばすことの純粋なる必死」「絶対領域に到達することの境地」には、完全なるイノセントを約束しなければおそらく辿り着けない。世俗や性癖や生臭さといった一切の人間性を取り払った、なにものかに向けられた願い、魂そのものとしての固執のようなものが、青白い光を纏ったまるでスーパーサイヤ人のようなラストシーンの身体性を生む(今回なら土屋ミヅキの最後の沈黙の立居)。だから、野田秀樹的に言えば「魂にキレがある人」でなければ、ひょっとこ乱舞の役者(特に主役級になればなるほど)になることは難しい。それが僕のタームで言えば、「触れ得ぬものとしての少年性/少女性」、或いは「慄然とするほど儚い聖域」なのだ。というわけで、『AKIRA』というよりは『火の鳥』なのですww すらすら淀みのない言葉で溢れ、惜し気もなく跳躍する究竟な身体と、凛然とする魂、それらが到達する、有るか無きかの着地点。鯨がほんの一瞬呼吸する為に浮上した任意の水面にあるものは、役者と観客の身体、その身体の固執、そして願いだ。流れ去る、ありとあらゆる物と時間が、ほんの少しの間だけ静止し、停滞し、弄ばれる場所——劇場。流れ行く、ありとあらゆる物と時間を、ほんの少しの間だけ留めようとする躊躇と嫉妬。それは、舞台という物語が空々しく演じられる時間と運動にだけ宿る、誰かしらかのささやかな幻覚なのか、それとも演劇という魔物が夢見る、ほんの束の間の short hope なのかだろうか。ああ、素敵、いや詩的だ。 まぁ今回は脚本がいまいちくんだったのと、アゴラでやるんだったら、もっと空間が入り込んでくる余地を考えてもよかったのではないかと思います。アゴラの真っ黒で重厚なあの壁は、なかなか役者がフラジャイルにならないと、対話に応じてくれないのだと思う。
by tajat
| 2006-11-09 09:53
| 舞台
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