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もう本当に彼は凄いんだって今まで2000回くらい思ったけど、今日の金曜ロードショーは記念すべき2001回目を飾った。これまでの作品に比べると、一段とストーリーの脈絡と整合性に欠けていて、予定調和っぽくもあり、しかもナウシカやラピュタの頃のようなギラッとした冷鋭さもないから、「なんだか映像は凄いんだけどいまいちすっきりしなかったわ」という日本国民が多いのではなかったかと思うが(もう日本国民がと言ってしまおう)、それでもなお、なお、なお彼は凄かったのだと、本日私は悶絶させられたのだった。それを以下に記す。
□ 「仮想敵国と擬似家族の、闘争と逃走の物語」 □ 宮崎駿の老い。これはファンならずとも薄々感じていたはずだった。ナウシカ=ラピュタ時代の作品全土に行き渡っていたあの冷徹さ、残酷さ、欲の油、破滅、反逆性などといったフレーズは、もののけ=千尋時代に入ると一気に影を潜めた。「人工に対する自然の反旗」というテーマは変わらず根底に流れてはいるのだけれど、受ける印象としてはまったくと言っていいほど違った、端的に、エッジイさが無くなって、温柔になった。ムスカはジコ坊に、オウムは木霊に、巨神兵は湯婆婆に、ナウシカは千尋に、いつの間にかスライドしていた。音楽も短調より、ぐっと長調が使われる方が多くなった。「ランランランララランランラン」…あの悲しげな曲はもう聴かれない。 となると駿くんは本当にもうおじいちゃんでしかなくなっちゃったんじゃないか!? という疑惑をどう拭えばいいのか。ラピュタの城=シシガミの森と続いたある種の「理想郷」も、『千と千尋〜』では一気に肥大化し、人工/自然の鬩ぎあいというよりは、もはや「楽園」の内部での問題でしかなくなっているようにさえ思えた。もちろん、あの作品は、古今東西万物の神があの旅館で「共に裸になって湯につかり、同じ釜の飯を食う」という、多文化包括主義、文明脱対立主義としての暗喩をもっていて、「この作品が日本で上映されていた時に、NYで9.11テロが起こった。あれは文明の衝突じゃない、『内輪揉め』だ」などと筑紫哲也が皮肉ったりもしたわけだけれど、それにしてもだ、なんだか駿ちゃんは(もはやちゃんづけ)年老いて隠居でもしたい腹なのではないかと、考えずにはいられなかったわけだ。 そして今度は、主人公をおばあちゃんにするだなどと言い出すではないか! もうこれは完全にやばい! 作品の内部にまで老化現象が及んできたではないか、やっぱりまんざらでもなかったか。と、勝手に焦っていた僕。けれど駿さんは的確に現実社会の問題点をえぐり出しているのでした。えぐり出すだけなら誰でも出来るんだけど、あの超越的な映像美とうっとりするようなドラマの中に潜行して集約させることは、今のところ彼にしかできないようです。 □ 「戦っているはずの敵が判然としない」。これが『ハウル〜』における最大のポイントだった。「どうやら何かと戦っているようだ。戦場も見えるし、戦傷も負っている。でも結局、いったいどこの何と戦っているんだ?」という、どうしようもなく付き纏ってくる疑問。どうもサリマン先生はラスボスではなさそうだし、でも暗黒の魔術界では確実に戦いが行われている、街の戦禍もひどいものだ。しかしいつになっても、真犯人は闇の向こう。いや、そもそも真犯人なんて居るのか! 今年の初めから激化の一途を辿る中東パレスチナ問題。最近でも、イスラエル軍が南部レバノンに侵攻した件で話題になっている。或いは北朝鮮のテポドンでもいい。もっと遡れば、イラク戦争でもいいかもしれない。…何が言いたいか。つまり彼らには、戦う「目的」はあっても、戦う「相手」は、いつも「架空の敵」なのではないか、ということだ。 アメリカは大量破壊兵器保持などを理由にイラクに制裁を与えたわけだけれど、本当の「目的」は中東諸国の民主化ドミノ政策だったり石油権の分散化だったりするわけだ。或いはそれに伴う親米化や世界の米尊信仰の獲得だったりするかもしれない。とにかく大前提にあった「目的」は権力の誇示と酷使であり、きっかけは何でもよかったのだ。「仮想敵国」として仕立て上げられた場所がありさえすれば…。だから、「何をめがけて戦っているのか」「何を対象にして戦争が引き起こされているのか」という部分が、常に不透明だった。北朝鮮にしても、自我の誇示という「目的」を達成する為に、どこかしこに「架空の敵」を作り上げている。相手など誰でもいいのだ、ただ戦いを巻き起こすことさえ出来れば、だから<仮想化>された敵国が作られ、「何に対して」という点がいつも霞がかってしまうのだ。 そして残ったは、「何と」戦っているのか瞭然としない現実と、ただただ無惨に蝕まれていく国民と街の姿だった。敵が誰なのか、何をゴールに戦っているのか、もはやわからないのに、戦禍だけがずんずんと積み重なっていくという不条理。兵隊ですら、もはや自分が何をやっているかわかってはいないのかもしれない。ただ命令だから、やる。命令されたことのみを、こなす。上層部の大いなる目的は、知らない、知らないでいい。それが現代の、戦争だ。たとえば平田オリザさんの舞台『砂の兵隊』では、この「霞の敵」という主題がうまく捉えられていた。『ハウル〜』で行われていた「戦い」の内実が、いまひとつ判然としない理由は、ここにある。もはや正義も悪もない。「どちらが敵か味方かなんて関係無いんだ」…確かこういう台詞が出てきた。それはつまり、そういうことなんだ。 だからこれはちょっと「大人向け」の作品っちゃあ作品で。いわゆる「ウルトラマン」的な勢力関係というのは、ここでは描かれない。だから、ムスカも居ないし、ゴリアテもいない。ナウシカ的対立も無いし、『もののけ姫』の神対人間とも違う。これは戦渦だけがあって敵の居ない戦争なんだ。そしてその戦争が企てられている場所が、あの「温室」だというのがまた象徴的だ。隔離され、保護された、「安住の地」としての「温室」に、ぬくぬくと腰を下ろした高見の人間が指揮をとる。「温室」には決して爆撃が当たらない。そういう風に、魔法がかけられているのだ。恐ろしい限り、システムという名の魔術だ。 □ しかしもちろんそれを示すだけでは充分ではない。天空の城の崩壊が、冒険にうつつを抜かしていた人間たちに、「結局は下界で生活/政活を送るしかないのだ、超越的な力を手にしてはならない」と告げていたように、そして、シシガミの死がもう一度人間に自然との関係を考えさせる余地を与え、アシタカに「生きろ」と言ったように、『ハウル〜』にも、霞に向かって弾を打つような戦争から逸脱するための(逃避するのではなく)、ある種の救いの手段、克服の方法の提示が期待される。単に年寄り化したのではないとわかった今、駿大先生にはこの時代を生き抜くための現実的で理想的な手段をご教授願いたい、こういうわけだ。『もののけ姫』のそれは、人間と自然とのある種の接近と折合だったが、『ハウル〜』のそれは、調和ではなく、闘争からのひとつの逃走だった。 言葉を喋る火の化け物がいる。ペットのような老犬がいる。魔術を奪われて介護が必要になってしまったおばあちゃんと、正体不明の男の子がいる。父親ではないが若夫のような青年が居て、母親のような女性がいる。そして大きな「家」がある。これは擬似家族だ。その家は動く、山を越え、国境を横断し、対象を欠いたあらゆる無惨な闘争から逸脱し、中空へと飛び立つ。それはユートピアへの逃避ではない。新たな共同体の在り方への序曲であり、彼らは漂浪者になるのだ。もうそれは、<擬似>家族などではありえない。穏やかな生を送るための小集団(ユニット)であり、文化の最小単位としての新しい家族の形態なのだ。 □ それにしても、今作の映像、映像美、映像のスペクタクルは、これまでの作品を軽く凌駕していたように思う。まったく比べ物にならなかった。映画を観る、という行為の最手前にある根本的な欲望——「見たこともない映像が見たい」というただそれだけのことに、この作品は何度も応えてくれた。途方に暮れるほど秀逸、としか言いようのない、展開の華麗さ、モティーフの精密さ、それこそもう本当に“マジック”なのだろう。ソフィが恋に落ちるための説得力が、足りなくてもいいんだよ! これは、映像の文脈に身を委ねる快楽なのだよ! そして、ソフィのキャラに「ツンデレ」という設定を与えた宮崎駿に、もはや老化説など唱えてもしょうがないのである。
by tajat
| 2006-07-22 02:16
| 映画
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