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2006FIFAワールドカップ準々決勝
第3試合「イングランド×ポルトガル」戦 □ しょっぱい試合だなぁ。ジェラードは多分ランパードよりもいい。けれど相変わらずイングランドのサッカーは、ミドルシュートが多い。決定率が低いからやめた方がいい、というんじゃなくて、一つ覚えみたいに手前からバンバン打ってミドル一辺倒の戦い方は、やっぱり見ていてつまらない。これは戦争じゃあないんだ。銃は必要だけど、銃撃戦だけがサッカーじゃない。ヴェッカムのFKは見事だけど、それもやっぱり飛び道具でしかない。これはイングランドの歴史性の象徴か? 一辺倒なのがつまらないんであって、別に飛び道具を使うことが悪いんじゃない。むしろそれが無いとダイナミックさに欠ける。でも銃撃戦だけじゃなくて、たまには大岡越前のチャンバラが見たいんだと思うんだ。自由な銃、なんてじゅうなんでじゆうなじゅうなんだ、フリーガン。銃撃、自由劇。 □ フーリガン、という言葉が出回った時期があった。今もフーリガンはいるけれど、日本ではその言葉は長らく地下に埋もれていた気がする。ドイツW杯の開催に合わせて、日本では映画『フーリガン』が公開されたが、開催国のドイツでは、当のフーリガンたちを刺激しない為に、映画の公開は控えられたということだった。サッカーはかつては祭りと同義で、日本では神輿が担がれて町の端から端まで練り歩いたように、ヨーロッパでは町の端と端にゴールを構えて、街全体をひとつのフィールドに変えていた時代があった。暴力的な争奪戦はあたりまえで、死者も多数出た。その歴史からもわかるように、サッカーの開催は、すなわち「ハレ」の日を意味している。「ケ」の日は「大衆」をつくり、「ハレ」の日は「国民」をつくる。ナショナリティの形成、つまり、国の内側と外側をつくるのだ。小泉首相の言う、「広い意味での愛国心」もこれに相当する。 フーリガンにとって、サッカーという祭典は、創造的なプレイを楽しむ為の場というよりは、“内側”としての仲間意識を高め、仲間内国家の民としての自分の存在を確かめ合う場であるといった方がいい。サッカーでなくてはならない理由は、たぶんほとんどない。自分にとっての身内、つまり自分が応援するチームだったり一緒に応援する仲間がありさえすればいい。なんとなく、田舎のヤンキーも、きっと同じ原理だと思う。敵と味方は同義なのだ。敵をつくることで同時に味方をつくり、ともに戦い、戦傷をなめ合い、称え合い、肩を抱き合う。日本という国家、クラブチームという国家、暴走族という国家、そういったテリトリーの内部の人間たちの、連帯確認の場が、「ハレ」の日に行われるイベントなんだ。 会社と家族のために働き続ける彼等にとって「ハレ」とは発散であり、フーリガンも暴走族も、まるで見らるためにそこにいる。社会的な個人としての、つまり大衆のうちの一人の人間としての、あらゆるプロフィールを脱ぎ捨てたい、彼等は言わば「匿名性」を渇望している。しかし「何者でもなくなること」と「何者かであること」は、この場合相反することなく同居する。彼等は、背広を脱ぎ、法被を纏うことで、「別の何者かになる」のだ。彼等にとって「ケ」は抑圧であり、去勢である。そこでは名前を与えられてはいるものの、基本的に誰からも無関心であり、自分達は社会的人間として経済のカオスに完全に埋没してしまっているのだと、彼等は信じている。だから「ハレ」の日を特権化し、特攻服に身を包むことによって、「未だ名前を与えられぬ者」としての生を造り上げようとしている。それが「本物の」自分かどうかというのは甚だ怪しい問いではあるが、彼等にとってはそこがある種のユートピアなのだ。 この手の「ハレ」の政治学は、集団を基盤とした人類文化を築き上げてきた文明のプロセスと、歩を一にする。つまり、境界と集団と構成員とその連帯を、構築しようとしてきた歴史だ。もちろん、日本で言えば江戸以前の、内発的(?)な司祭行事がつくりあげてきた「民衆」と、近代化以降の規律・管理型社会がつくりあげてきた外圧的な「大衆」とは、明確に区別されるべきではある。ただ後者に関してここで触れるとすれば、家族揃っての食事、国民の休日、会社の朝礼、などなど、近代社会は、「孤人」という単位を作り上げたうえで、その単独で拠り所のない人間たちに対して、集団での儀礼を準備することによって、それを共有するすべての人を構成員に仕立て上げ、所属を与えて安心させてきた。メディアが、やれ日本代表だワールドカップだと騒ぐとき、その一種の「ハレ」の儀式は、あなたとわたしと日本代表を、無差別的に地続きにし、単一の「日本人」をつくりあげる。近代的制服、「ユニフォーム」という装置は、ここでは連帯と無差別を内面化するために、重要な役割を果たすだろう。(制服と身体の画一化に関しては、三浦雅士著『身体の零度—何が成立させたか—』を読むといい。或いは日本とヨーロッパのサポーターの応援形態の違いに、大戦以降の政治事情のほかに、両者の風土、根源的生産形態の違いが関わっているとすれば、松本健一著『砂の文明・石の文明・泥の文明』が何か解読のヒントを与えてくれるかもしれない。) □ 回転寿司の皿が壁の向こう側へと吸い込まれていく、「ケ」の日の彼等は、その「見えない」壁の向こう側にいる。そして「ハレ」の日を「造り出す」ことによって、抑圧を浄化し、解消させようとしている。「ハレ」とは、埋没から逃れ「見られる」ための場所であり、同時に「未だ命名されざるもの」としての第二の存在を生起させるたくらみでもある。回転寿司の回転するレールの「こちら側」に出て来ること、つまりそれは、彼等にとっては、社会的ステイタスを与えられた一人の個人としての生、大きな歯車の一部分でしかないという限界に対するひとつの抵抗手段であり、「見られていないという不安」を抱えた、現代社会の病の根源的な症候でもある。自分が何者であるのか、それを確かめるためには、「見られる」ことが絶対的に必要なのだ。無の中では、誰も自分を外側から規定できない。彼等は、自分を規定する鏡を、弁証法を、必要としているのだ。そのためには、自分自身を、「インサイダー」から「オープンサイダー」へ移行させ、その距離を見定め、世間から相対的に見つめられなければならない。 だからフーリガンや暴走族たちはあんなにも、「見られる」ことに恍惚するんだ。報道が彼等を叩けば叩くだけ、逆に煽る結果になり、彼等はどんどん叱られることにエクスタシーを感じる。中学生がやっていることと、そんなに変わりはない(中二病、なんて言葉もありますね)。親に放置されて、悪ばっかりやって、けどある日自分が何をやっているのか分からなくなってくる。自分が存在することそのことについて、無意味さと困惑が募ってくる。そんな不良のどん詰まりを打開するには方法は二つ、一つは親が叱ること、もう一つは、もっと大きな罪を犯して法律に裁かれること。どちらにせよそれは、自分たちだけで好きにやれるという究極に自由で同時に究極に不安な状況に耐えきれなくなって、兎に角なんでもいいから僕らを見て、僕らの存在の善悪を検閲して下さい、という喘ぎなのだ。自由と不自由とは、それぞれコインの裏表に描かれた文字と絵柄だ。 犯罪を犯すこと、虐げられたいという欲望、試合会場で暴れること、高速道路の集団走破、この民族化、脱-大衆化のリビドーの根っこには、ただただ平坦な毎日が続いていく中で、自分が結局何者でもないのではないかという不安を払拭するための、自己規定と自己防衛の手段が隠れているのだと思う。けれどそれは結局、「ここではないどこかへ」の無限ループでしかない。会社での抑圧を、趣味に向ける。学校の不満を、ゲーセンで解消する。そうやって外へ外へと逃げ場を求める。それは、自分自身を守るための、ある意味で「正常な」症例なのだけれど、そうして見つけた居心地の良い代用-場所に、本物の自分がいると思ったら大間違いだ。自分探しに出かけても、自分なんて見つからない。ゲーセンだけで欲望が満たされればいいけれど、そこがつまらなくなれば、また別のどこかへ陶酔を求めに行く。そうやって無限に「ハレ」を捏造しながら生活していくことは、暮らしやすいかもしれないけれど、それは結局ただ永遠に横にスライドしていくだけで、ちっとも上に積み上がってはゆかない。自分を構築したいのなら、「ハレ/ケ」とは無関係に、ただこの社会の森「の内に」留まり続け、何かを蓄積してゆくしかない。 と、なんとなく逃げ場としての「ハレ」を否定したところで、逆に可能性を示唆してみる。要は、「ハレ」が、本来の自分の在り処や連帯感といった、安易な拠り所としての性格を帯びてしまわなければいいのだ。では、OLが日々苦しい労働に耐えしのぐために、たまの休みに息抜きと贅沢をする「自分へのご褒美」的な「ハレ」の活用法ならば、効果的なのか。それは、「ケ」から逃れるための「ハレ」ではなく、むしろもう一度「ケ」に向かうための「ハレ」だ。解消でも浄化でもなく、そこで祭りはひとつの循環を示す。いや、もっとジャンプしよう。「ケ/ハレ」でなくとも、たとえば「メジャー/マイナー」でも「保守/革新」でもいい。とにかく二つの潮流が並行していて、主流に対するオルタナティヴとしての手段に活路を見出そうというやり方は、もう古い。「どうせ他人にはわからない」といって自分達の中だけでプチサークルを作るのは問題外だし、「外部」や「対抗馬」をつくるだけでも不十分だ。文字どおり、流れを失い、すべてがフラットになってしまった「平成」。もはや「ハレ」と「ケ」を内越した、脈動するカーニヴァルが必要な時代なんだ。 さあ、これをして、江戸のええじゃないかとビートルズを、9.11をめぐるテロリズムを、われわれは何と説く。今日は『train spotting』を観た後で、GLAYの『ここではないどこかへ』を聴きながら眠りに就こうか、笑。 □ 政争/勢走/成層/晴相/聖装
by tajat
| 2006-07-03 11:30
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