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テレビ朝日の深夜番組、『龍虎飯店』という番組をたまたま観た。『龍虎飯店』は、一流の食材を使った一流の料理人によるガチンコバトルで、簡単に言えば『料理の鉄人』形式の番組なのだが、『料理の鉄人』と違うところは、①今週の挑戦者(虎)が前週の勝者(龍)に勝つと、挑戦者が次週の龍になれるという崖っぷち方式だ(つまり毎週「鉄人」が変わる可能性がある)ということ、②全三番勝負で、一試合につき制限時間がたったの5分だということ、そして最後に③試食するゲスト審査員(一人)が一流ではないこともある、ということ、この三点だ。
■料理人の「先取り」 料理人は、目の前に出された食材から瞬時にイマジネーションを膨らませ(事前に知らされている可能性もあるが)、しかも五分という余りに短い時間で、試食者の五感にフルに訴えかけるような「ひとつ」の作品としてそのイメージを融合させ、結実させなければならない。これは想像を遥かに絶する作業だ。では、何が「想像を絶する」のか。 まず料理人が最初に意識の中に想起するのは、料理の最終形態である。おそらくそこではもう、視覚的映像だけでなく、匂いや、歯応え、味わい等が細やかに意識内に描写されているはずだ。こうして、美しき「フィナーレ」を描くこと、これは料理人ならずとも、例えば優秀な美食家なら、可能かもしれない。しかし、その「ゴール」へと向かって、一瞬の無駄も躊躇も切り捨て、或いはその直線から少しでも逸れようものなら、即座に微調整し方向修正出来るだけの状況判断と対応能力を身に付ける事、これは経験と修練を積んだ者にしか体得できないテクニックだ。 アボガドの実を、目にも止まらぬ速さで刻んでいく、刻みながら、もうその目は、出来上がりにかけるソースの煮え具合を覗っている。ミルクとアボガドの実を混ぜ炒めたものを、ミキサーに入れる、入れる途中で咄嗟にミルクを少しだけ捨て、混ぜ合わせた後の味を想像しながら、アボガドとの量の相和を見極める。彼等の意識は常に10秒先、更に究極的には5分後にある完成図を先取りしている。その一挙手一投足が、眼、舌、鼻、耳、皮膚すべての知覚器官が、その先取りされた将来の完成形(美しきフィナーレ)へと奉仕している。彼等の細胞一つひとつの内に、すでに未来が内包されている。彼等は速度そのものであり、流れることそのことだった。考えることは、刺激の流れを一時的に中断/停滞/保留することだが、彼等が「料理する」ときの思考は、経験と修練によってその断絶が極限まで切り詰められている。それゆえ、単に時間の(相対的な)問題ではなく、目に見える運動として、私達はそれを絶対的に「はやい」と感じてしまう。彼等は存在しながらにして既に速度であるような、そんな振る舞いをする。 ■速度としての「スポーツ」 この無駄の無い所作を、私達は単純に「美しい」と感じてしまう。それは私達の価値基準のひとつでもある日本文化が、無駄を切り捨てることをモットーにした「ワビサビ」の文化だからだ、というわけでは必ずしも無い(そもそも日本文化の根底がアンチ装飾主義文化だなどと誰が言った)。これは、例えば庭をゴージャスに飾らず質素な佇まいにする、という「空間的」な問題ではなく、繰り返すがあくまで「時間=運動的」な問題なのだ。「切り詰められた運動」に関してのこの身震いは、日本文化だけではなく、もう少し広い枠組みのレベルにおいて共有される感覚なのではないだろうか。 レーシングカーが、最短距離で回り切れるギリギリの速度でコーナリングする。大量の牛乳瓶がリボルバー式に回転し、ミルクを注ぎ込んだチューブが抜き取られるや否や、絶妙なタイミングでアームが降下し蓋を填め込む。ヴェッカムの右足から放たれたフリーキックに、「そこしかない!」というタイミングでロナウドが頭で合わせてゴールを決める。友人からの他愛のない投げかけに、くそ真面目に直球で受け答えする。そう、これらはいづれもある種の「スポーツ」に違いない。勿論、料理・工場生産・サッカー・対話と内容はそれぞれ異なるが、それらは共に、「方法として」スポーツなのだ。 荒川静香のイナバウアーも、羽生善治の手詰も、超一流イン稼貴族の矢継ぎ早の株売買も、それが一見スポーツに見えないようなジャンルのものでも、最終的であれ暫時的であれ、とにかく何かしらの目的(フィナーレ、ゴール)が設定されていて、それにオペレートする形で身体行為が奉仕される運動形式を伴うものであれば、それはいづれも「スポーツに似た」形態をとる。言うまでもなくそこでは、高次元の先取り能力/逆算能力が要求される。そして、その行為を成就する身体(動く主体にとっての、あらゆるレベルにおいての総合的輪郭)に従属する部位(意識・肉体・言語)のできるだけ多くの部分が、設定された目的にくまなく奉仕していればいるほど、それは運動としての「美しさ」をより纏うことになる。 ジダンが試合中に余所見をしていたら、私達はそれを「美しい」とは感じない。キューちゃんがマラソンしながら携帯電話で恋人と電話をしていたら、「美しさ」は激減するどころか全く無くなる。ジダンの脚が「サッカーすること」のゴールへと向かっていても、その眼は試合とは無関係な、どこか明後日の方向を向いている。キューちゃんの脚が「マラソンすること」のフィナーレへと向かっていても、その意識は明後日のデートプランを考えることに従事している。つまり、身体がフィナーレに対して全面的に/全部分的に奉仕していなければ、あの「動速の美学」とも呼べる「美しさ」は創造されないということだ。意識・肉体・言語(つまり身体の全点)が、先取られた一点の未来(=行為の成就)に向けて集束していくこと、どうやらこれこそが、居ながらにして速度になる「方法」らしい。 ■「自然」には敵わない、のは何故か 僕らはおよそ多くの時間、「気散じ」している。映画館で映画を観たって、全編ずっと集中してられなんかしない(あれほど一つのことだけを強要する「場」も珍しいというのに)。集中しろ、と口では簡単に言えるけれど、それを身体化するのは非常に困難だ。身体を「集中」させることに慣れていない者が、それをやろうとすると、脳が疲労する。だがこれは単に、脳がそういう使用方法に慣れていないだけで、「スポーツ」的身体の運用法に親しい人間の脳は、「集中」のプログラム回路がより開発されているから、「運動素人」よりは疲れにくい。(ちなみに言っておくが、「運動」といっても体を動かすだけではない、考えることも立派な運動だ。) 「動速の美学」、すなわち、集束すること、無駄を切り詰めて極限まで排除すること、一に成ることの美しさの極地は、自然である。「自然」といっても社会に対立する自然ではない。ここで言う「自然」とは、より物質的であること、運動そのものが「生き延びること」と常に同義である状態、存在自体が生命そのものであらざるを得ないような形態、そういったもののことである。例えば、チーターが全速力で、ひとつの無駄もなく、しなやかな肉体を機敏に動かし、獲物を獲る光景。また或いは、群れをなした鰯が、大魚から逃れる為に、泳体の向きをいっせいにギラッと変える光景。これこそ正に、「スポーツする身体」が目指すべき、「集中する身体」の極地ではないか。 では、何故人間は、この「自然」を超えられないのか。それは、それらの生命体が、常に生と死の狭間に直面しているからである。いや、というより寧ろ、彼等は生きながらにして、常に「生/死」なのだ。例えば私達にとって、全ての行為が生きること/死ぬことに直結するするわけではない。テレビを見ることが私にとって生きることそのことだ、とうい人は誰も居ないだろうし、それをやめたところで死ぬわけではない。私は見ることを止めたら生きてはいけない、他人と話せなくなったら死んだも同然だ、と言い張りたい気持ちもわかるが、必要に迫られれば、私達人間は、目や耳や内臓が片方なくたって、生きていけるのだ。私たちには、公共の手厚い保護がある。 しかし、所謂「動物」にとっては、そうでないことの方が多い。チーターにとって、足は生きること、生き抜く術そのものであり、それが無ければ他の動物に獲って喰われてしまう。鰯にとって、自らの眼は、彼の「生」以下でも以上でもない存在であり、それが失われれば、文字通り致命傷になる。つまり彼等の身体(意識・肉体・言語(コミュニケーションの手段))は、生と死のレベルまで切り詰められていると言っていい。そこでは生と死は同義だ。 しかしこれは勿論逆説的な言い方であって、人間は元々この状態から派生したのだ。不可分だった生/死の境界を極端に広げ、死への畏怖を遠く追いやろうとすることによって生の感触を忘れ去ってしまった社会的人間が、スポーツやサーカスにおいて、その身体運用のみの「軽やかさ・しなやかさ・美しさ」で動物を上回ることは、従って殆ど不可能に近い。「人間の割りには凄い」「人間にしてはよくやった」という域にどうしても留まってしまう(だから競馬がスポーツなのか単なる博打なのか判断が難しいのだ)。 人間がみせる「スポーツ的身体」は、それが身体の全てを単一的目標に集束しようする限りにおいて、絶対に「自然」には敵わない。それが能力的・機能的障壁であったなら、現代科学は容易にその乗り越えに成功していたことだろう。しかしこれは物質的(或いは空間的)な問題ではない。人間的身体の多くはもはや、生々しい生/死に隣接してはいない。その境遇こそが、運用法としての「自然的身体」から我々を遠ざけるものであり、同時にそれへの憧れ・欲望を駆り立てる原因でもある。「自然」は、或いは動植物でさえも、何かを羨んだりはしない。彼等の感受システムは、自らの身体、自らの生死の進退に、一秒も無駄を費やさないよう、慎重にプログラムされている。それは暫定的に設定されたフィナーレなどでは決してない。それは「生があること」「生存すること」そのことなのだ。生が続く限り、鰯の両目には、「死」という文字が映され、死が訪れるその瞬間まで、チーターの脚には、「生」という文字が刻み込まれるだろう。だからこそ、少なくとも私達にとって、彼等は限りなく、はやく、美しい存在であるのだ。 ■「物質」という名の速度 では、この原理に従えば、最も「はやい」のは「物質」であることにある。チーターも鰯も、人間に比べれば遥かに生の速度ははやいが、若干の迷い・躊躇はある(寧ろこの中断作用こそが生命の始まりだ)。物質(無機物、或いは細胞レベルの生命、でもいい)は、何も躊躇しない。生/死の彷徨いや判断より先に、それはただ、刺激に対して反応することのみによって存在している。それも、アクションに対するリアクション、のような有機的なものではなく、入射角に対する反射角、刺激の単一的な伝達、といったものである。 ひとつの身体としての生命体は、動くことによって「はやさ」を意識させる。つまりそれは、空間の中での時速という、視覚的な「はやさ」である。もっと言えば、それは、五感で感じられる(言い換えると、生/死の範疇内での)「はやさ」に過ぎない、ということになる。光が当たり、跳ね返る。この静物的、前四次元的、時間的「はやさ」が、今のところ地球上で最も高速であるといえる。これは移動=運動の問題ではない。したがって、止まっているものが実は一番はやい、というパラドックスにはやや問題がある。止まっているものだろうが、(移動として視覚的に)動いているものだろうが、光学的な運動状態にあるものは、一元的に皆同じ、しかも極めて高速な、速度を保有していると言わなければならない。「スポーツする身体」の欲望を極限まで引き伸ばせば、「物質」としてのこの単純な反応作用に行き着く。 だからこのことも、同じように人間の憧れの対象になりうる。無になりたい、風になりたい、泥になりたい、プラナリアになりたい、というような、粒子的・原子的・無機物的・単細胞的理想は、人間的余剰を切り詰めたい、生きるがままにただそれが存在そのものであるような生の在り様を獲得したいという欲求、即ちここでいう特別な「はやさ」の内面化への希望に基づいている。物質への変身願望もまた、やはり同じように、生死を持つものとしての「躊躇」、「躊躇」による身体の運用方法の前に、脆くも打ち破られてしまうことになる。私たちの身体から、「迷い」が無くなる日は来ないのだ(禅は、このことに抗おうとする勇敢な精神の冒険だ)。 ■「人間的な」身体の運用方法 勿論、眠っているときの身体は、眠っているその瞬間に限っては、限りなく生物・静物に近い存在、在り方として生物・静物に近い身体の運用方法を体現している。それは生の維持の必要に迫られた行為であり、呼吸すること・目を閉じること・脳を無想させることなど、睡眠状態にある身体の全部位が生存することと同義であるが故に、無駄が無く、美しく、移動しないが故に、見た目としては物質の在り方に近い。人類も、生まれる前と死んだ後は物質的存在になる。しかし、その中間地点に居る私達<人間>は、在り方として完全に生物・静物になることは難しい。少なくとも、人間によって育てられ、人間的社会の中で育った者にとっては、ほぼ不可能と言っていい。 ならば、存在として、身体の運用方法として、人間「らしく」生活する(×生存する)手段とは何か。それは、ここで述べるにはあまりに膨大すぎる。ただほんの口先だけ触れるのだとすれば、それは、身体に対するあらゆる刺激に対する反応を限りなく停滞させ、想像力を弄ぶことだろう。つまりそれは、ただ保留し続けるのではなく、先取り、流動し、検討し、再配分・再編集し続けることである。相対性や多様性の中で、永遠に浮遊的スキップを繰り返すのだ。
by tajat
| 2006-03-09 06:29
| 雑記
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