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「不在の対象/対象の不在」
舞台全面を揺りかごのようにして覆う大きな厚布のハンモック、その上に大量の砂が張ってある。上演中に砂が舞うため、あらかじめ観客には必要に応じてマスクや飴が配られた。出入り口は下手奥と上手前の二か所で、砂漠の真っ只中にある中継ポイントへ向かう自衛軍・新婚旅行中の夫婦・軍隊に配属された夫を探す妻・家出した母親を探しに来た家族、これらの小グループが間隔を置いて(つまり順序よく出はけしながら)、舞台を左から右へとルーティンしていく。同じ場所をぐるぐると周り続ける、途方もない砂漠だ。この作品の根底にあるテーマは、「差異と反復」である。砂漠というのは、小さな差異があるだけで、どこまで進んでも同じような景色が反復される場所である…<差異と反復1>。そこには微々たる違いがあるだけで、いつまで繰り返しても変わらない、変わらないことを繰り返す。舞台上では、それぞれのグループが繰り返し砂のハンモックの上に登場する、けれどその順序は少しずつ変化する…<差異と反復2>。夫を探しているという日傘の女性、彼女の言う夫の名前が、尋ねられる度に毎回少しずつ変わる…<差異と反復3>。そして、この物語自体が、ラストシーンでファーストシーンに回帰することで永遠に反復される、そしてその内容が微妙にシフトする(母親の再婚から、父が犬を飼う話へ)…<差異と反復4>。 さらに、もうひとつ「不在」を主題にしても、この物語を語ることが出来る。各グループはそれぞれ、手にすべき明確な目的が存在している、ように見える。軍隊はポイントDへの移動を、家族は母親探しを、女性は夫を、それぞれ砂漠にいるための動機としている。けれど、その目的は実在しているかどうかの確証されていない、徐々に、存在していないのかもしれないという直感が宿る。軍隊は移動を繰り返すだけで軍部の真の目的地がどこなのかを知らないし、母親も夫も実はどこにも居ないのではないかという共通認識が、物語の途中でじわじわと高まりつつある。したがって、皆それぞれ目標があるのだけれど、その対象が存在していない、対象の不在をどこかで知りながら、各グループともに旅を続けている、という一貫性が宿る。不在になった対象を追い求め、遂に浮かび上がる対象の不在、そしてその不在を埋めるための旅の続行。しかし、新婚旅行に来た夫婦にだけは、求めるべき「不在」がない。彼等は文字どおり、二人のカップルとして完結している。それゆえに、目的の追求に余念のない他のグループと比べて、記念写真を撮ったり、軍の腕章を盗んだり、桃の缶詰を取り出したりと、その行動は無鉄砲で、最初から意図的にどこか浮いた存在として描かれている。彼等には欠落がなく、パーフェクトであるがゆえに、埋めるべき不在の穴がない。ルーティンの周回にはじめに順序のズレをきたすのも、やはり彼等である。なぜなら、彼らは無目的であり、他のグループと違って、不在の対象に向かって一直線に進むことが要請されていないからだ。 しかし突如として、新婚旅行の夫婦に「不在」の訪れがやってくる、そしてそれが物語の原理の崩壊でもあると同時に、ストーリーの終焉への序曲でもあった。放浪の民と思しき背の高い男と小さな女の子の二人組——彼等の動線は常に舞台の上手から下手へであり、この意味で各グループとは常に<敵対した>存在になっている(実在的にも敵となるわけだが)——によって、夫が殺されるのだ。ここで初めて、カップルという完結した関係図に亀裂が生じる。その無邪気な女の子が持った銃(これは自衛軍の銃だった)が放った弾丸は、手に持った桃の缶詰を貫き、夫の肉体へと突き刺さる。国民を守るための鉄砲が、皮肉にも国民に向けられ、その銃弾は、缶詰と夫婦関係の双方に「不在」の穴を空けたのである。ただひとつだけ不凹を守り続けたグループに「不在」の手錠が課せられたことによって不在の遍在化を迎えた物語は、再度その歯車を始動させ、終わりなき「差異と反復」の舞台の継続に向かう。登場人物に課せられた任務は、不在の対象を発見してしまうことではなく、対象の不在に幕をかけ、その旅を遂行し、全うし終えないことなのだ。こちらが進んだ分だけ、目標の方も同じだけ逃げていく。決して埋められることのない「不在」の旅は、まるで、砂漠の地平線に浮かぶ「逃げ水」を追い求めるかのように、途方もない。 「出会うこと」、或いはその水面下に表裏一体として隠されている「出会わせないこと」、の技巧によって戯曲を作っている平田オリザが、この作品でまずはじめにとった策謀は、グループ同士を徹底的に「出会わせないこと」だった。核グループは、次から次へと舞台上にあらわれるが、ひとつのグループがオンしているあいだは、他のグループはオフしており、始めの二周回目までは互いにほとんど「出会わない」。かくして、舞台上に三つ以上のグループがあらわれたのは、片手で足りるほどの回数だった。しかし、この「出会わせない」手法こそが、逆に「出会った」ときのインパクトを強烈にする効果をもつ。広大な砂漠の中で、誰かと誰かが「出会うこと」の稀少さを焦点化するための手段だったのかもしれない。AがBと「出会うようにデザインすること」は、同時に、AがB以外と「出会わないようにデザインすること」と同義であることを忘れてはいけない。平田オリザは、何かを選択するだけでなく、選択しなかったものに対しても、おそらく自覚的であるに違いない。なぜそれを選択したか、なぜ、これとこれを出会わせたのかと問えば、勿論答えは返ってくるだろうし、なぜそれ以外を選択しなかったのかと尋ねても、説得力のある回答が返ってきそうだ。人間同士のどんなに深い関係性も、はじめはほんのささやかな「出会い」に端を発する。平田オリザは、どんな戯曲でも、何よりもまずその「出会い」(当然それ以外との「不交」も常に考慮されている)から会話なり響きあいなりを作り上げていく作家なのだと思う。
by tajat
| 2005-11-23 16:41
| 舞台
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