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燐光群『だるまさんがころんだ』を神奈川県青少年センターにて観劇。坂手洋二さんの作品は、以前に『屋根裏』を観たことがあった。坂手さんの戯曲は、社会問題と日常生活との、触れるか触れないかの関連性をユーモラスに描き出し、一見無関係そうにも思える数々の「場所」を、ひとつのテーマ性を主根にして、オムニバス風に転々と行き来する構造になっている。『屋根裏』は、平台一枚分程の狭い密閉空間を舞台装置に用いた。場面(ソフト)が変わっても空間の特性(ハード)が変わらないので、空間としての「屋根裏」の用途が個人の事情によって様々に変容するのが、面白い。そんな、少々変化球気味の『屋根裏』演出が巧妙すぎたために、『だるま〜』の変哲のないすっきりとした舞台に、ほんの少し物足りなさを感じてしまったのは僕だけかな。(『屋根裏』では加えて、最後に小空間の「屋根裏」が解体されて、舞台全体が屋根裏製作工場へとアクロバットに転換するのだった。)
地雷をテーマにした今作。地雷圏に足を踏み入れてしまった二人の自衛官、親方に地雷の調達を言い渡された気弱なヤクザと、地雷除去活動中に爆発で手足を失って「だるま状態」になってしまった女性、自衛のために周囲に埋めた地雷のせいで身動きが取れなくなってしまった村の住民、日本で唯一の地雷製作工場で地雷を作り続けてきた寡黙な父親と、その姿を小説におこす娘。地雷をめぐる幾つものストーリー、そして、いくつもの「場所」と「場面」。戦争の最前線にも、社会保護団体の足許にも、山奥の村の武器庫にも、そして、一家の片隅にある押入れの中にも、地雷は埋没している、地球上で地雷が爆発するかもしれないあらゆる地点に、任意の社会的生活の「場」が営まれている。「父の押入れは、世界の現実とつながっていた。」つまり、坂手洋二が考える、社会的事象の実体の崩壊と、全体と部分との相互内包性に関する、ひとつの回答がここにあらわれている。戦争や犯罪や死が、例えば「リンゴが<ある>」と言うときのように、明確な全体性をもって現前し知覚できるわけではない。抽象的事実に対して、我々はつねに、それが示す兆候や症候といった、あらゆる「表徴」をもってしかその全体性を築き上げることができない。例えば、「可笑しい」という感情は、それ自体物質的な拡がりをもって存在しているわけではない。頬の筋肉の緊張や目尻の綻びや笑い声といった、物理的ではあるが複雑に散在し且つ連結した幾つかの「表徴」が示されることによって、「可笑しい感情」は外部へ表現される。戦争も犯罪も死も、そうした部分的な「表徴」の集積として理解することが出来るし、それらの部分集合は全体性を縮約するかたちで内に含んでいる。 「風が吹けば、桶屋が儲かる」という言葉がある。ひとつの現象は、必ずしもそれ自体独立し、他の現象と袂を分けて「存在している」わけではない。構造主義的に言えば、すべては圧力と抗力のバランスが保たれた矢印の関係性のリゾーム、なのだ。だから、坂手の戯曲は、それがどんな内容のものであれ、方法としては「オムニバス的なるもの」でなければいけない。戦争も犯罪も、そして個人の死でさえも、その捉えようのない全体を、ひとえに把握する事はできない。その代わりに、坂手は、現象を、いくつもの社会の営みの「場」へと解体し、相対化していくことで、見えない連関のパイプを想像させようとする。「風が吹けば、桶屋が儲かる」ように、一見ちぐはぐにもみえる散在した点が、ひとつの現象のルールによって次々と結ばれていく。それらは一見確かに、個別に自律した生活のコミュニティであると同時に、ある社会的現象にとっては、それぞれが同じひとつの主根を原点として共有される「表徴」の症例なのである。物理的には断絶した場所で起こっている出来事が、目には見えない現象の根の上で、ひとつの連関を担っている姿を、坂手は描こうとしている。「表徴」はとても薄っぺらいもので、沢山の葉のようなものである。根は空中からは不可視だし、葉とは地続きにないように見えるけれど、実はしっかりとつながっている。根からの水分は葉に送られ、葉で作られた養分は根に移動する。互いに別々のものをフィードバックしている。それらは部分と全体のように、互いに互いを内含しているのだ。坂手の演出は、ちょうど、根と葉のふたつを繋ぐ茎(パイプ)の役割を果たしている。イラク戦争は、引きこもりは、郵政民営化は、どこか遠くに<ある>問題ではない。それは様々な方法で、任意の生活圏に「表徴」として表れているはずだ。どこか遠くの国で発生した石油問題は、明後日のドライブのガソリン代と、便所の尻拭き紙に影響し、力関係の矢印のバランスを保とうとするものである。その連関の面白さ、意外さを作品にするならば、オムニバスにされる数々の場面は、「一見無関係そう」に思えれば思えるほどいい。そうすることで、見えない想像製のパイプは、いっそう際立ち、心理的な太さと長さを増していく。 「日常の一風景」と「世界の一情勢」との接点をテーマとする燐光群は、オムニバス演劇を選択するべくして選択したと言える。そんな坂手洋二が、今、平行してもうひとつの舞台を演出している。なんとこれが、完全なる一話完結もの!俳優座で上演されるラティガン三部作の第一部「ウィンズロウ・ボーイ」。ストレートプレイを坂手さんはどう演出するか。ちなみに一昨日観劇済みなので、今日の記事と対置させて面白い文章が書ければいい。
by tajat
| 2005-09-15 03:32
| 舞台
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