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「だますこと/だまされること、の甘美」
いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』を読み終えた。著者名・書籍名にもあらわれているとおり、平仮名の用い方が、とても美しい作家だ。普段なら漢字で書いてしまいそうな単語を、あえて平仮名で書くことで、やわらかく浮遊感のある文体を練り上げている。語基反復(ひらひら・いそいそ、など)も、実に巧みに用いられていて、耳のうらの、こそばゆい空隙をくすぐられるような心地よさの漂う文章だった。 双子の兄弟テンペルとタットルは、半生のうちに、それぞれ人々を騙し欺く道を歩んでいく。とは言っても、これはとてもロマンのある「だまし」で、一座に入ったテンペルは手品師に、村に残ったタットルは、父親(“泣き男”)のいるプラネタリウムで、星の語り部となる。工場の煙突から立ち上る煙のせいで、夜空の星座を見ることが出来ない村の人々は、毎晩のようにプラネタリウムに足を運び、泣き男の星の解説に耳を傾ける。その星空が彼等にとって、偽物かどうかは、本質的な問題ではない。村の人々は、その星空が本物でないにせよ、そのプラネタリウムを楽しみ、泣き男は、村のお客たちの空虚を満たすために、満点に輝く星空に秘められた物語を紐解くのだ。それが彼らにとっての、現実であり、循環なのだ。季節も時間もてんでばらばらの、本物ではない星空は、村の人々の心を深く潤していく。そして、テンペルの一座が繰り広げる手品もまた、人々を騙すためのものではあれど、お客たちは、寧ろ鮮やかに騙されることをはじめから期待し、承知して、一座の手品を楽しみにやって来るのだ。 「だまされる才覚が人にないと、この世はかさっかさの世界になってしまう。」欺かれないように、正しいものを、真理を、追い求める事にがんじがらめになるのではなく、騙し騙されることの、駆け引き、爽快さ、敗北することの悦楽、その甘美を、一度引き受けることで「楽しむ」態度こそ、世界を愉しむための「余裕」であり、ある種の「豊かさ」でもあるのだと、この物語は教えている。盲目の老婆は、死んだはずの夫に成り済まして書いた手紙を、タットルに届けさせていた。またタットルは、毛皮をかぶって山へ入り、熊を演じることで、猟師たちに熊狩りの夢の続きを追いかけさせた。テンペルを死なせてしまった少年を立ち直らせたのも、やっぱり“騙し文句”だった。物語の登場人物は、みな、誰かを欺き、誰かに騙されている。けれど彼らはどこかで、そのことを楽しんでいるようにも思える。金儲けのために騙すのではないし、真実を隠すために欺くのでもない。人を悲劇に追いやるのではなく、幸福にするために、欺き、幸福になるために、騙されることを受け入れる。 論理の境界を見定めるためだけに、思考が強張ってしまってはよくない。例えば僕たちが、より“豊かに”生きることを共通の目的としているならば、物事を「楽しめるかどうか」というのは、時にとてつもなく重要な条件であり、本質的な問題であるような気がしてならない。当然、「楽しむ」ことは「楽をすること」とは截然と区別されなければいけない。肯定と協奏とを切り開いてゆく道のりと、単なる怠惰とが、同じプロセスであるはずがない。感情、場の空気、共鳴など、人間と人間とのあいだで作られるものにとっては、「正しいか/誤っているか」、よりも、「楽しくできるか/つまらなくしてしまうか」、の方が、ずっと重要な物差しになりうることを、近頃痛切に実感することが多い。それは永遠なる真理が掌る絶対的なロジックではなく、瞬間の中の永遠、「悦びの倫理」とでも呼べばいいだろうか、そこには、普遍的な真理の是非ではない、何か物凄く個別的で具体的な倫理が支配している。絶対不変の論理は、ときに人を制圧する。人間と人間とを断絶させ、疲弊させ、創造の可能性を無化し、その場の人間関係や印象を、つまらないものにしてしまうことが間々ある。だからと言って、ロジックを否定するのでもなく、それとは全く別の場所で、僕は悦びの物差しというものを採用したいのだ。正しいことが正解なのではなく、愉しいことが正しいのだと。それが空気を読む粋、間を伺うワザでもある。常に流動的であるという点においては不変的ではあれど、その基準になる条件はいつも可変的だ。 タネも仕掛けもある、否、むしろタネと仕掛けしかない? 人を騙すための手品も、張りぼてのプラネタリウムも、「本物ではないこと」を立証するのは実に容易いことだろう。真偽の論理で言えば、明らかに「偽なるもの」である。しかし、手品やプラネタリウムを偽りだと罵ってしまうことほど、つまらないことはない。確かにそこには別のリアリズム、ミメーシスが存在しているし、それ以前に、何よりそれを「愉しむ」姿勢こそが、必要とされているのではないか。すべては虚妄である(或いは逆にすべて現実である)と一端引き受け、引き受けた上で、会話を、アトラクションを、人生を、カーニヴァルを、愉しむ方法を見つけ出していく態度。それは確実に、時空間としてのある種の厚みを孕んでいくことにつながる。必要となるのは、そうした人間としての余裕なのだ。騙されることを引き受け、悦びと愉しみを見出していく、そうした“だまされる(ための)才覚”をもった人間たちのあたたかみと豊かさが、うっとりするような文章にのせて、この本にはしたためられている。
by tajat
| 2005-05-06 01:09
| 文学
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