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蒼い子宮で時熟する双子のダンス。
□ たとえば、水平方向に軽やかな移動を繰り返す身体の重心や伸びやかなその肢体を支えている、強靭な筋や腱の張りと盛り上がりが、汗と息継ぎが、遠近感が、映像には映らない。画面の中で眼に見えるとすればそれは単なる肌理や音声の起伏としてでしかない。だからこそ浮体は浮体のままでいれるし、従って、このダンスを生で見たいとはあまり思えない。 ローザスのスカートはただのスカートではないし、決して脱いだり履いたり覆ったり「するためのもの」ではない。靴も靴下も髪の毛も全部、肉体が剥落しきってもきっと重力で下に落っこちたりはせず、この画面の中では浮かんだままでいると思う。それは、即ち、事物の機能の不在であり、重力の不在である。そういう「素材感だけが縁取られる感じ」は既にフイルムを介在している時点で避けられない。 だとすれば、そこにある生の腕が、もはや通常の意味での腕ではなく見えてしまうような装置(振り付け)を作り出した、たとえばウィリアム・フォーサイスなどは凄い。首と連動する頭、頭と連動する眼、眼と連動する手、といった有機的な関係はなく、あらゆるものが切断され、視覚的にのみ宙吊りされている。そしてそこでは、反-重力を部分的に求めてきた舞踊が、解体されることで却ってその希求を成就させるという?A皮肉的な「展開」が隠れていることにもなる。 フォーサイスがいて、ピナ・バウシュがいて、イリ・キリアンがいて、日本ならダムタイプやチェルフィッチュがいて、ではその「展開」が、「結末」ではなくあくまで経緯としての「展開」であるならば、それはどんな位相においてか*1。差異と反復が強調されるという意味では、観客のパースペクティヴが固定され続ける舞台作品の方がよりその効果は高い。しかしこの「シネダンス」は、横這いになめるように動くカメラと、身体の部分的なクローズアップによって、舞踊をまた別の表象に接続する方法をもっている。 これはもはやドキュメントではない。だがやはり舞踊の純粋な鑑賞からも遠い。強いて言うならこれは、「ただ流れるモノ」を辿る眼の、緊張と陶酔に近い。 ■ ・*1『身体の零度』の中で三浦雅士は、近代的身体の零度から出発した舞踊の身体が切り開く可能性について問うている。本文の中ではあくまで問題提起のみに留まっているが、現代舞踊についてのその後の探求には注目したい。
by tajat
| 2007-04-26 03:15
| 映画
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