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写真と写真をめぐる言説について書かれた約20のエッセイから構成されているのだけれど、総和としてはどうしても「寄せ集めました」という印象が全面的に出てしまっていて、ところどころ非常に興味深い言及や切返しがあるにも関わらず、エッセイ毎の濃淡の極端な差のせいで、この本一冊のコストパフォーマンスはさほど高くない位置に甘んじている。 バルト・ソンタグ・フルッサー・ベンヤミンの写真論を引き継いだ4つのエッセイも、結局はある程度のパラフレイズをするのみに留まっており、2章・3章におさめられている文章も、これまで述べられてきた事象の「その先」に行きあぐねているといったところを隠し切れない。跳躍するのはいいが等閑にされたままのことが多く、最後焦って出発点に戻ってきたという感じのエッセイが多い。
エッセイの内容のうちで最も革新的だったのは近藤耕人「写真と絵画に挟まれた物の光」なのだけれど、報道の創意性/創意の報道性という根源的な主題に対する結論が、ゲルハルト・リヒターの写真的絵画に集束していった点については、少々説得力にかける部分がある。映像の終焉以降のイメージ(ここでは特に写真画像)の可能性について論理は展開されており、社会的コードの中で編集され文脈化されることによって写真の無着色性が損なわれるのを懸念したあとで、しかしながら、写真を下地にしたリヒターの冷淡な筆が「モノの力」(ボードリヤール)と現前性の関係の中でリアリティをどう刷新しようとしているかについての的確な考察を下すにはいたっていないように思われるのは気のせいではないだろう。この時代においてイメージの可能性を探るならもはやコンテクストからの脱却だけではなく、直接性や無媒介性、あるいは「ノエマ」(サルトル)的なものとの接近に迫っていく必要性が一方であるはずだが、リヒターの手法では写真イメージの無着色性や「モノの力」をむしろ隠ぺいしてしまう恐れがあるのではないか? 確かに、報道写真がある一定のコンテクストにおいての意味を強く帯びてしまうことは頷けるが、必ずしも写真一般がそうであるとは言えず、リヒターの手法に、政治的な意味を帯びた写真でも、いわゆる抽象絵画/具象絵画でもなく、新たな「力」の可能性を見いだすとすれば、現前としての絵具と現前性としての対象の同居について論議をもっと深めることが重要なのではないか。いや少なくとも、絵画と写真の「あいだ」に、「愛の温もり」があるというだけでは不十分だろう(もちろん書いてあることはそれだけではないが)。そしてリヒターの写真的絵画が、写真それ自体や絵画それ自体とどう隔たっているかに加えて、「意味が剥脱されたという意味」だけではなくそのイメージが持つ新しいかたちの意味がどういうものであるか(またそれが「モノ自体」とどういう共犯関係を結んでいるか)についての深交が足りなかったのではないかとも思う。 そしてもうひとつ。井上善幸の「サミュエル・べケットと見えざるもの」という文章もなかなかに面白かった。が、やはり考察に甘さが目立つ。19世紀後半から、即ち遠近法と消失点の崩壊とセザンヌの登場から、量子学と生体心理学の台頭との相互作用ではじまった<観察者の系譜>(J・クレーリー)のパラダイムシフトが、必然的に観念論や唯心論の立場をはからずとも援用し下地にしてしまう事実に意識的にならなければ、何の意味もないのだ(筆者は意識しているかいないかは別として、そこに対する言及や内省がない)。つまり何が言いたいかというと、いくら「そのときどきで個人に見えている対象の姿は非常に移ろいやすく特定できそうにない」ことが明らかとなり、またその「知覚のゆがみ」自体を表象化しようとする芸術家があらわれたとしても、それでも私たちはひとつのリンゴを誰もが等しく「リンゴ」と認識するわけであって、したがって移ろいやすい観念と、同一性の向こう側にある実体や不変項(J・ギブソン)とは、常に擦り合わせ吟味させないといけない筈だ。にも関わらず、本稿では、簡略化すれば「ひとりの観察者にとって今見えているリンゴと一秒前のリンゴとは同じではなく、すべての観察者にとってあまねく同じリンゴなど存在しない」という見地から未だ実在論の側に歩み寄っていない、というところに留まっている(それは必ずしも、実在論も擁護せよ、ということでは当然ない)。そしてもうひとつ付け加えるなら、べケットが「写真的だ」という時の写真の定義が最後まで明示されないままで、この本の『写真との対話』というタイトルの中で語られるにはあまりに何かが足りないような気がしている。 しかし、とは言うものの、方々から様々な切り口のエッセイが集まっただけあって、ここには考えるための種子が非常におおく散撒されている。コストパフォーマンスは低いが、読んで損はない、あるいは眼をとおしておきたい一冊だ。
by tajat
| 2006-09-10 06:40
| 写真
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