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「語らないことの余地」
□ 仮に文学というものが、言葉に依る想像力の要請だとすれば、映像は、正にその映像と言う名の表面の饒舌さでもって、叙事と抒情を変奏する作業だろう。文学が想像力を要請するからといって、勿論文字が何かを「語る」上で断定を避けているわけではないし、言葉を重ねる限りにおいて具体性は積み重なるものだ。そして例えば想像の「余地」をいかほどまで残す/与えるかが文学を「読む」上でのひとつの基準点となりうるのであれば、反対に映像は(漫画でもいいわけだけれど)、どれだけ叙事と抒情から、つまり、「少なからず断定的に語る」ことから遠ざかることができているかが、問題になってくる。 例えばよくある幻滅の仕方は、原作ものが映像化されたときだ。これは言わずもがな簡単なことで、文字に依る漠たる風景/人物が突然具体性を帯びることの違和が、読者(映像の場合でもここではそう呼ぼう)に生じるのだ。では、映像が文字にされるときはどうだろうか。例えば主人公が、雨に打たれて悲しいとも嬉しいともない“微妙な”表情を浮かべたショットが映像によって捉えられたとする。観客は、彼の感情を想像するもよし、別の構造を手掛かりにそこに何かを読み取るもよしだ。しかし例えばそれが文字にされた瞬間に起こる想像力の拒絶とは、即ち「解説されてしまう」ことによって起こるそれだ。「悲しいとも嬉しいともない微妙な表情を浮かべ」などと書いてあっても、それは読者にとっては少なからず抒情的な規定/限定なのであって、映像が映像であらなければならない由縁は、映像のままでとどめておくことの饒舌さであり、意味的なものにギリギリ還元される手前の「イメージ」としての「語り」の必然性である。つまり、「読まれる余地」を残す、ということだ。 □ 色んな映像がある。いい意味で想像するいとまを残さず、例えば『マインド・ゲーム』や『嫌われ松子の一生』みたいに最後まで突っ走り続ける映画もある。それは文脈と展開に身を委ねる快楽でもある。スリリング/アクション映画はこれに近い。或いは逆に、小津安二郎のように、映像の内に徹底的に「読む余地」を残すような監督もいる。端的に言えば、ロングショットが多い。観客の注意は、表層の砦から表層の奥地へと、まるで一枚の絵画の内に襞を折り畳んでゆくようにして、表面のジャングルを迷走/瞑想し、情報の細部を刻んでいく。誰が映っているか、ということに始まり、あの畳の摩れ具合が、とか、茶箪笥のいい味が、とか、仲居さんの着物の張りが、といった具合にだ。『マインド・ゲーム』の湯浅監督の作るスピーディーな映像が音楽的(時間的)であるのに対して、小津監督の静的な映像は明らかに絵画的(空間的)である。しかし、勿論絵画にしても映像にしても、それは完全に静止しているわけではなく、言わば限りなく生死を繰り返している。我々は空間の中を移動するのではなく、寧ろ運動することによって時間が形成され、時間の隔たりが空間を生み出すのだ。小津安二郎の映画(『晩春』だったか)に確か、微動だにしない風景のロングショットがある。その景色は一見静止している。しかしそれを(暴力的に)観客に長い時間眺めさせることによって、観客の注意はその表面の上を浮遊し(浮遊せざるを得ない)、新たな時間の生起を作り出す。厳密に言えば、世界に止まっているものなど存在しない。全てはそれぞれ独自のリズムで運動をしている。それは所謂科学的で空間的な(時計という物質で代理される)時間ではなく、個々にバラバラに生起された運動に沿った時間である。 徒花*の今回の作品はその意味で、決定的に小津的な手法を感じさせるものだった。アフタートークで主演女優の方が「余白の美」というようなことを仰っていたが、私はそれを「余地」という言葉に置き換えたい。「余白」というと何か空間的なものを想像しがちだが、そもそも先に言ったように、空間とは時間(運動)の中で生まれるものなのだ。余白とは言ってみれば、注意(或いは焦点化された対象)の<外>にあるもののことを言う。しかし、湯浅監督のようなスピーディーな映像では、ワンショットずつを注視する余裕がない。それは相対的に言って速く、<外>に注意が向かう前に次の画面に進んでしまう。逆に『hanafusa』に見られるいくつものロングショットは、一風景を眺めるための時間(有余)を読者に与えるため、次第に限定的な注意の外側へと、滲み出すように意識が開放されていく。情報は厚みを帯び、光景としての重厚さをかたちづくる。それはノイズ/背景だったものを意識的注意の内側へ持ち込む作業であり、即ち焦点化の移ろいを要請することでもある。 □ 『hanafusa』が持つもうひとつの「余地」——情景の「余地」とはまた別の——は、「語らない」こと、「書かない」こと、の有余だ。人物背景や状況設定に必要な情報、会話が進んでいくきっかけ、或いは各々の行動の原動力となる要因などに、過剰さがなく、敢えて「引き算」されている。それは「語り過ぎない」こと、「書き過ぎない」ことで、想像の、或いは誤読の、「余地」を観客に与えようとする計らいなのかもしれない。一種のミニマリズムだ。いや、もしくは“間引き”だ。必要以上に剥いで、剥いで、「これ以上は剥げない」「ここだけは残したい」というところまで情報を排除していって、最後まで残ったものを、徹底的に磨き、愛でていく。おかずを吟味するよりは、米自体の味を極める、甘味料や糖質を加えるようりは、水自体の甘さを探究して行く、そんなような育成法だ。だから作品全体も、流動的で多目的的な“動物的”な印象というよりは、一所に根差すどこかしら“植物的”な印象を読者に与える。それは時間的な「余地」により、陽の当たらない場所に生えた雑-草<noisy-weeds>にさえも、時に注意のチャンスを与え、読者の意識の内に吸収させていく。ノイズは初めからノイズなのではないし、注意が注がれて初めてそれがノイズだったのだと気付かされるのである。従って、この作品は、所謂“ノイジー”な映像というよりは、寧ろ雑音が雑音だと理解されるまで注意を引き延ばし開かせるための「余地」や「有余」を残した作品だと言えよう。 そうすることでしか伝わらないものがあるのではないか、という投資/闘志に捧げられたこの画面は言わば掛金の塊のようなものだ。不意に読者の視点を地上から引き剥がし、板張りの天井と雑多な草花が同居した昭和の情緒を思わせる住宅地を俯瞰する静的なロングショットの内に、草木のあるかなきかの微動や、茶灰色の赴き深い屋根の中で一枚だけ浮いていたビビッドグリーンの瓦など、或いはそのまま思い半ばに視線の<外>に置き去りにされても不思議ではない数々の情報の隙間に、注意が“及ぶ”という妙であったり、部屋から姉を閉め出した妹の心情や、男がアパートに訪れた的確な理由を、忠実に言葉で「解説する」のではなく、諸処に散りばめられた水草のような台詞からあわいを想像させる巧みな運びであったり、その簡素さは必然的に台詞の量を削り、残ったものの質を際立たせ、さらに引っ越しの準備をほぼ終えた姉の文字どおり簡素としか言い様の無い部屋の佇まいへと伝染していったかのようだ。雑多とは無縁の部屋の中で、根詰まりを起こしたトイレと、借りてきたスッポンと、「姉には嫌われているが実は人当たりのいい二階の中国人」だけが、画面(視聴覚的世界の限界)の<外>にあるにも関わらず何故か異様な存在感を訴えている。生活感とは無縁の部屋の中で、ただひとつ映画の中を揺らめき、まるで振子のように運動=時間を刻んでいたあの揺りかごのような椅子と、窓辺の天井に隠された煙草だけが、かつてここに根付いていたであろう生活の「名残」という役目を辛うじて担いながら、この部屋にこびりついた過去の歴史の集積を読者に想像させる。余地とは余分さのことではない。風化する歴史の片隅で幸運にも余った土地、つまり煙草と椅子とは、遍歴の手掛かりとなる遺跡として、採掘者である読者の手に届けられた。従ってその出土品は、読者の想像力を過去と未来とに引き延ばすための対話の装置として読まれなければならないだろう。 □ しかし画面の向こう側で交わされる当の対話が、あまりにテクスト主義的に映されている(またはそうでなければいけない)理由に、小さな疑問符を投げかけてみる余地はある。決められた台詞に従属しているからテクスト主義なのではない。問題は対話を捉える画角だ。基本的に、ここでの対話はおよそ引目の長回しでとらえられているため、表情の機微よりも寧ろ純化された簡素な言語作用だけが浮かび上がってくるかのようだ(それには台詞と台詞のあいだの“間”や躊躇も含まれる)。それはおそらく作家の狙いでもあったのではないかと推測はされる。読者の中にはこれを(簡素ではなく)単調で退屈なやりとりだと言って、余白に目を向けない惰性に逃れてしまう者もあったかもしれない。だからと言って、「アップも入れつつ映像に抑揚をつけた方がいい」とか「視点の切り替えを増やしてみた方がいい」などと安易に言うつもりは毛頭ない。そうではなくて、対話が行われる時間帯(それがこの映画の中では極めて多くを占める)において、言語に対してイメージが余りにも、意味性(或いは無意味性)の領域から脱却してしまっているのではないか、ということだ。 つまりそれを補うものこそが映像の饒舌さ(そこには沈黙も含まれる)なのだが、少し換言しよう。例えば私が映像の饒舌さ故に尊敬する山下敦弘監督の、『リンダ・リンダ・リンダ』という作品で、主人公の女の子(現在大ヒット中の香椎由宇)がある男(山本浩司)のもとにスタジオを借りにやってくるシーンがある。「いらっしゃい」と口少なに取り交わされる対話を捉えたショットの、そのイメージ(言語=音声ではなく)の内に、関係性や背景を臭わせる何層もの情報が点在している。別れた後、連絡をとりたくもない元彼のもとをしぶしぶおとずれざるを得なかった彼女の心情(絶対変なことが原因で別れて、以来一度も連絡なんてするつもりなかったのに、なぜか携帯のメモリーは残してたんだぜ、とかいうこと)や、のうのうと生活をしている得体の知れない若者の生活実態(どことなくラテンでレゲイ風だ、部屋には変な匂いのお香がありそうだ、でも多分一度も焚いたことなんてないんだぜ、とかいうこと)が、自ずとそのショットから読み取られる。言葉で伝えるか、或いは全く伝えないかのどちらかではなく、小火のように映像で仄めかすという方法(それは少なからずの断定、とは違う)、…おそらく作家は、このことを知らないはずはない。長回しの対話のショットを、引目の画角で捉えることでしか見せられない語りの方法は、確かにあったはずだ。しかし、読者がそれを平坦だ(意味的言語の飛び交いでしかない)と感じてしまう最も大きな要因は、大半を占める対話の、その画角が余りに一定であり過ぎたことなのではないかという風に思う。勿論必ずしもイメージが多弁である必要はないが、ここではあまりに一定過ぎて、だんだん背景や表情やモティーフが、何も語らなくなってしまい、読み取られるべき対象がもはや言葉以外にない、という状況にまで陥ることが、何度かあったように感じるのだ。 「言葉による語り」と同時に、「映像による語られ」、それが映像作品としての説得力であり、ラディカルな必然性ではないか。言葉のやりとりだけなら、小説でも可能だ。そうでなければ、逆に、煙草を取り出すシーンや、海辺のショットが、あれほど雄弁であったはずがない。対話のシーンは例えば全く関係のない場所(正に余白そのもの)を映してイメージの語られと音声の語りとを乖離させても面白かっただろうし(多用は逆効果だが)、姉を閉め出すシーンにしても金沢から来た男の描写にしても、単純に引目ではない方法で語られること(それは勿論言葉によっての語りでもなく)がもっとあっても良かったのではないかと思う。試しに映像と音楽のみの作品を作ってみるのもいいかもしれない。注意を拡散し余白に浸透するための効果的なロングショットは生かしつつ、テキストを解体しイメージとしての世界との相関の中で混じり合う「意味の弁術」をひとまず期待したい。 □ <解説的な上文より余程下らない談余。或いは余裕のない残余> 僕は小津の作品を、やはり未だに一度たりとも最後まで寝ずに見ることが出来ないでいる。それは物語が平坦だからではないし、つまらないからでもない。あんなにも面白いのに、何故かついいつもうとうとしてしまうんだ。それは何故か、僕はよく知っている。そして『hanafusa』の対話のシーンも、これに相当すると思うんだ。その原因とは、「完璧である」という皮肉な原理だ。それは、最高のショット、とは違う。人が居る、人が喋る、ここはどこで、誰と誰が話している、そういったあらゆる状況説明的事項が、いっさいがっさい同時にワンショットの中で語られ、それをすんなりと読み取ることが出来る、否、出来てしまう、と言った方がいいだろうか。映像の内容を嫌が応にも言語作用的に仕立て上げているのは、映される時間の長さとフレームだ。ブレがなく、人間を等身大に映し出したそれには、何の落ち度やズレもなく、映像と音声とが紛うほど完璧に一致している。それを仮に、画面構成としての「報道性」と呼ぶことができるかもしれない。しかし、完璧なものは、読者の注意をその表面上に長いこと留めてはおかない。からくりを知った手品を誰も悦んで見たりしないように、或いは犯人が最初から判っている推理小説が存在しないように。隠れるものなき完璧さは人を感心させ、率直な理解を催させるが、モザイクのように立ちはだかって、人を通すことがない。見えないもの、欠けているもののある表象こそ、人の飽くなき<視線>、見ることへの探求を、中に導き入れる。音声と映像の齟齬を勧めたのは出鱈目でもなんでもない、見えるものと聞こえるものとの間に、別の辻褄を想像させるような「隠蔽構策」を作り上げたらどうかということだ。勿論、多用は禁物だ。それは幼稚なままごとにしかならない。しかし対話のシーンだけが何か特筆・純化・聖地化されているような観はどうしてもいなめない。固定のワンショットが長いあいだ継続することで、より一層神聖さが助長される。完璧であることが完成なのではないし、精巧にすることが成功であるとは限らない。長時間の完璧な対話を映像にしてしまうこと(非文章化・非舞台化)、つまり断面及び切片としての世界に表象させることは、決定的に彷徨を拒否してしまう。対話のシーンよりも、妹が炊事場で花瓶に水を入れるシーンの、部屋の奥に向けられた「どちらともつかない隙のある」ショットの方が断然良かったのはその所為だ。それは画角によってもたらされる、完璧さとは対照的なある種の弱点であり、読者の思惑の入り込む余地/隙、さらにその隙間への紆余彷徨の引き受けなのだ。 ここで最後に、フランスの作家パスカル・キニヤールの『さまよえる影』の一節を紹介して終わる。 「読むことのなかには、到達を求めない待機がある。 読むことはさまようことだ。読書とは彷徨だ」 言うまでもなく、それは映画を<見る>営為についてもだ。
by tajat
| 2006-07-30 08:58
| 映画
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