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自分と言う存在は、例えば歩きたいと思えばどこへでも、時間をかけさえすればどんな距離でも歩いてゆけるという意味で、何にでも自由がきく存在であります。しかしそれと同時に、とてつもなく不自由な存在でもあります。それは単に、足がこれ以上曲がらないという肉体的能力の限界としてでもあり、いくら考えてもわからないという思考的到達の限界としてでもあります。それを「限界」と思うのは、その「外側」を、意志的にか無意志的にか、知っているからです。その「外側」へ、肉体や思考を飛び出させてくれるのが、メディア=媒体です。ここでは、機械や道具だけでなく、言葉や他者をも含めた広義のメディアです。例えばマクルーハンの定義ではメディアは、身体の一部を拡張する(自由にする)装置のことを意味します。例えば飛行機は、人間の肉体的能力を超えて、人をより遠くまでより速く輸送することを可能にします。或いは言語は、目の前にある物事に対する即物的な反応の円環から抜け出して、様々な事象を、抽象的にですが捉えることを可能にします。また、他者は、自分が考えもつかなかったようなアイディアを生み出したり、自分の欠陥を克服する補完的な関係を築くことができる点で、自分にとっての自由になりうることもあります。勿論、自由と言う概念はとても流動的で、時代や個人によってその内容が大きく異なり、またそれは常に不自由と表裏一体でありますから、例えば、不自由が故の自由、或いはまたその逆のことがあったり、自分にとっての自由が他者にとっては不自由であったり、部分的には重なるけれど一致しない場合や、同じ自由でもまったく相反する、またはまったく接点を持たないような二者以上の自由というものも存在します。従って問題は、いずれかを神格化することではなく、色々な自由の定義を寄せ集め、吟味し、編成することで、よりよい自由の存在を模索することにあります。これもまた自由への意志です。つまり、自由に対して意識を開くこと、編集可能な情報をできるだけ多く獲得し、比較できるという自由なのです。これは言い換えれば、数多くの選択肢を有する自由とい言うことも、部分的にはできます。一般的に思い付きやすいのは、この多数性の自由です。例えば、メニューが一つのお店より、二つのお店の方が、自由度が少しだけ高い、だとか、何を選ぶかは私の自由よ、といった場合に想定されている自由がそれです。老人より、赤ん坊の方が可能性に満ち溢れているように見えるのは、この自由の概念に則っているときです。しかしそれも当然ながら、ひとつの観点に過ぎません。多数性の自由に対して、例えばスピノザのように、多様性の自由と呼べるような自由の定義を考える人もいました。これは、ただ選択肢を多く保有するだけではなく、自分の中に他者を折り込み、他者の中に自分を折り込むことで、互いに融合し、より多くの様態を自分の中に獲得することに自由を見出すことです。小さな水滴が互いに結びつきあって最終的には海のような「実体」になるというイメージが、想像しやすいでしょう。或いはまた、これは政治的な虚構=フィクションですが、ルソーらが考え出した自由の理念のようなものもあります。要するに、人間は生まれながらにして自由・平等であるという、タブラ・ラサ(白紙)、民主主義的な考え方です。この考え方はアメリカのグローバリズムとともに世界中に浸透して行きましたが、消費社会や情報社会を主軸にした様々な原因により、現在では枠組みだけが残って内実が完全に欠如した状態になりました。著作権や個人情報を保護する法律が一方では重要視され、他方では重要性が批判視されているのには、そういった背景があります。メディア・リテラシーというようなこれまた教養主義的な単語を並べずに、情報社会における新しい自由のあり方を、早急に刷新しなければなりません。You Tube を Google が買い取ろうとしていますが、あれじゃ広告に汚染されていけません。放映権を主張しているテレビ会社や個人作家なんてもってのほかです。もはやこのご時世に、情報を「所有」することにどれほどの意味があるのでしょうか。そういう固定的な知や主体のあり方は、とっくに内実を失っているというのに形式だけがそうやって残っています。もっと「流通」することに、可能性や自由を見出すべき時代に差し掛かっているのです。それは、企業だけでなく、個人や個人間の会話もそうです。もはや「個人」という言葉さえ無くすべきです。国家にとってのそんなおあつらえ向きの「名前」や「日付け」などというものは捨て去るのがいいのです。もう固定的で独立的などんな事象もありませんし、固有名詞で名付けられるものは全て空虚です。一部の名詞や動名詞、動詞、それから沢山の形容詞と副詞が必要です。もっと細分化してもいいくらいです。主題や主体の時代はもう終焉/周縁を迎える筈です。従って、A does B. というような主語が念頭に必ず置かれている言語というものは通用しません。そういう意味では日本語の構造は情報社会的です。しかしその構造が向いているからと言って、必ずしも、「主体性を欠いた人間意志」がいいというわけではありません。日本人は余りに主義主張がなく、流通というよりは、波風の立たない停滞、或いは日和見主義や現状維持体質といったものに依拠し過ぎています。しかしながら繰り返すようですが、だからといってそれが堅固な方向へと向かってはまずいのです。それは単に、モダンへの回帰なのです。そして最後に、と言ってもこれが締めくくりで最も正しいのだと言うつもりは毛頭ありませんが、カントは、このように人間がひとつの可能的な/不可能的な問題に対して想像と創造を巡らせることの鋭意と営為、それ自体を、自由意志という風に呼んだのです。当然、それが「ひとりの」人間によってであるかどうかなどということは、全く問題ではありません。
by tajat
| 2006-10-13 05:08
| 雑記
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