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■ぐびなま、の刺客
アサヒビールの新製品『ぐびなま』のCMが、近頃よく流れる。「ぐびっと、うまい」のコピーとともに、中年癒し系?タレント小西真奈美が、両手に缶ビールを握って、カメラ目線、いつもはアンニュイな表情を浮かべて登場するコニタンだけれど、このCMでは、少々イヤらしい目で、ぐぐっと画面に迫ってくる。風呂上がりのように、ほんのり艶っぽい肌、この大胆さ加減の先にあるターゲットは、仕事終わりのサラリーマンか。上質の食材とのマッチングを狙ったキリン一番搾りや、爽快感をあおったサントリージョッキ生やキリン淡麗グリーンラベル、或いは高級性を狙って他との差別化を図った、エビスやサントリープレミアムモルツ(矢沢永吉出演)など、様々なマーケティングバリエーションがあるけれど、このコニタンのぐびなまは、「疲れた会社帰り、風呂から上がって火照った体に、可愛らしい女の子が、はい、とビールを差し出してくれる」という、いささか王道めいたシチュエーションを、ストレートに設営している。 なーんて思っていたら、つい最近、おやっ、と、若干裏切られたような感覚に襲われた。同じ『ぐびなま』のCMに、藤井隆が出演するバージョンが出たのだ。勿論、ひとつの商品CMに、いくつかのバリエーションを持たせる企画はよくある話で、寧ろそうでもしないと、新鮮さにしか反応しない視聴者のお眼鏡にかかることは出来ない。ただ、この『ぐびなま』は、単に次のバージョンに移行した、というだけの話ではなさそうだ。僕が抱いた違和感にはいくつか理由がある、一つ目は、こんなに短期間のあいだに、イメージタレント自体が(代わったのではなく)増えたこと、二つ目は、藤井隆がビールCMかよ?ということ、そして三つ目は(二つ目とも被るが)、ある種オルタナティブとして出現したツーバージョン目の趣旨が、オリジナルCMのものと比ると、曖昧で霞がかって見えること。 巨乳美女との電撃結婚以来、羨ましがられながらも実は好感度が上がったように見える藤井隆だけれど、彼を小西真奈美に対置させて、しかもビールのCMに抜擢した意図は、何なのだろう。中年男性の視線を奪った、コニタンのバージョンに比べると、藤井隆のバージョンは、そのターゲットが見えにくい。男性タレントだからと言って、中年女性の癒しの感情を得ようとするんでもなさそうだ。それならもっと適任が他にいるはずだろうし。確かに、二つのバージョンともに、「疲れてるんだろう? これ飲んで、元気出そうか?」というような、ある種の同情心・共感・寄り添いを視聴者に提示する、という同類項はうかがえる。しかし、提示されたものとしてのシンパシーという共通の側面とは別に、藤井隆のバージョンは、画面の中に於いての「向こう側」、つまり、「こちら側」にあるはずの、CMが引き付けようとするものとしての対象像が、いまいち明瞭に見えてこない。藤井隆が、寄り添い? それが、同時期に二人のタレントを起用してまでツーバージョンを製作したことに対しての疑問にもつながり、さらに、藤井隆をキャスティングしたことに対しての疑問にもつながる。つまり、わざわざ藤井隆を起用してまでバージョンを増やして印象づけたかったことが、いまひとつ理解できないのだ。 この、ツーバージョン目に対する「引っ掛かり」は、例えば、「映画スピード2が、1よりつまらなかった!」というような、よくありがちな、ツーバージョン目の「劣化」とは違う。クオリティが下がったとか、そういう問題じゃない。やりたいことがそもそもわからないんだ。『スピード』は1も2も、視聴者をスリリングに陥らせたいという意図の下に製作された背景は、目に見えて理解できる。ただ、二つのあいだにある違いは、そのスリリングさの度合い、つまりその量が、一作目の方が二作目よりも上回っていたということだ(勿論そんな単純な縮図ではないにせよ)。しかし果たして、この『ぐびなま』のツーバージョンのあいだにある、差異は、量の違いにだけ還元されるものなのか? 僕にはどうしても、藤井隆のぐびなまが、小西真奈美のぐびなまに対して「質を異にする」ものに、思えてならない。ならば、そこに賭けて、この違和感の分析を楽しんでみよう。 ■理解への到達を誘う/拒む、その「引っ掛かり」 アナザーバージョンへの謎、この攻略を手助けするヒントが、実は、現在流れている別のCMの中にあった。というか、僕の手によって、二つをリンクさせてみる。この作業は、ともすれば恣意的なものになってしまいがちだけれど、そこは慎重に、こじつけにならないように、解読してみる。そのもう一つのCMというのは、健康飲料水として定着しつつあるサントリー『DAKARA♥』のCMだ。小便小僧で一気に注目を集めた『DAKARA』のCM、一時、もこみちくんや鈴木えみや斉藤孝教授などを使っていて、旬路線に走ったかな?という嫌いもあったのだけれど、最近、小泉今日子の例の「ジョジョビジョバァ〜」のバージョンになって、また息を吹き返したように見える。一見やさぐれたような表情で、けれどその衣装は清楚で、「はだかになった小泉今日子」、「浄化された小泉今日子」を思わせるCMは、あの「ジョビジョバァ〜」という粘度の高い掛け声の、正に「何か、よからぬものが出てきたァー」という雰囲気と相まって、シンプル且つ印象的なメッセージ性を持つものに仕上がっている(このせいで『広末涼子、浄化計画』の特異性は半減した)。 この小泉今日子のDAKARAのCMに、つい最近になって新バージョンが登場する。古代ギリシアの予言者を連想させる出で立ちで現れる山崎努が、大勢の民衆を従えて天運の呪文を唱えるように「ジョジョビジョバァ〜」を叫ぶ(「バァ〜」で顔がドアップ)。正直、初めて見た時、真っ白い画面にずりんと立っていた小泉今日子のあのバージョンが頭にあっただけに、同じ『DAKARA』のCMだと気が付くのに時間を要した。辛うじて、同類項として、あの台詞があるだけだった。方や、体内環境正常化をうたったような、白を基調とした瑞々しいCMがあり、そして方や、雷鳴と轟きと歓声で木霊した、ごりごりとした耳触りの黒を基調としたCMがある。この両極端な印象づけによって、「ジョジョビジョバァ〜」という、よく考えてみればさっぱりわけのわからない掛け声が、何かが「発散される」という意味合いの範疇内で相対化されるわけだけれど、山崎努のバージョンは、『DAKARA』の飲料水としてのコンセプトに、果たして見合うものなのか、という疑問が浮上する。 或いは、山崎努を持ってくることによって、『DAKARA』の印象改革を図ったのか? いや、でも『DAKARA』に「パンチ力」とか「沸き上がる威勢」とかいらないだろう(笑)。あの迫力で、小泉今日子のバージョンとは全く「異質な」あの迫力を通して、いったい何を印象づけようというのか。まさしく、小西真奈美に対する藤井隆のときと同じように、CMが持つ、商品の印象付けとしての作用を考えると、この『DAKARA』のツーバージョン目も、些か整合性に欠ける。しかし逆に言えば、理解を拒絶するような、この、ある種の「不条理」的コードこそが、視聴者の「引っ掛かり」を呼び起こすものかもしれない。そもそもCMとは、記号論としては、その商品を「どう」売って行くかという、視聴者に対する商品の戦略的印象付けを主要な目的として持っているものであるわけだけれど、それを敢えて、「どう思わせたいんだ!?」という、ある種、一般的なCMの作為的記号論を逆手に取ったような、脱-順行的なコードの線上に置くことで、それを読み取ろうとする視聴者と、その理解を拒むCMとのあいだに、一種の「不条理作用」が巻き起こるのだ。 ■変調としての重複効果 藤井隆のバージョンが、山崎努のバージョンが、視聴者に「?マーク」を植え付ける、一種の「不条理」だと仮に呼ぶとしても、その不条理性、或いは反-読解性は、しかしながらいずれも、「オリジナルとの関係性においてしか」その性質を保持することができないはずである。要するに、藤井-山崎ver.は、それぞれ独立して、絶対的に「意味が分からない」のではなくて、いずれをも、小西-小泉ver.と比較した際に、商品の戦略的印象付けの意図を考慮した上で、前者の方が後者よりも、なんだかちょっと「よくわからない」、整合性を欠いたものとして映るのだ。 小西のぐびなまのCMを見た時、視聴者のほとんどは、ふむふむなるほど、と同調し、理解したはずだ。そうか、疲れた仕事帰りの男性を癒すような商品、そういうメッセージ性で来たか、と。或いは小泉のDAKARAのCMを見た時、なるほど、何かからだの中で、精神的に/肉体的に淀んだものを浄化するようなものとしてこの商品を売ろうとしているんだ、と、視聴者は読み取ることが出来たはずだ。藤井-山崎ver.に違和感を感じるのは、こうした、小西や小泉のバージョンが持つ、第一段としての妥当性がまず先立って存在しているからに違いない。あれ?、思っていたメッセージとちょっと違うぞ、第一段から得た印象と、微妙に異なるぞ、なんなんだ、この商品は、このCMを作ったディレクターは、どうしたいんだ、いったい! 実は、そう思ったこと自体、このツーバージョンの戦略構成に、うまくはまっているのかもしれない。 おそらく、藤井-山崎ver.は、それぞれ単独では、決して放流できないCMなのではないかと、仮説を立ててみる。それぞれを、それ自体単独で視聴者に見させるのでは、ディレクションサイドが印象づけたい商品の正当な自律的性格や他商品との区別から、おそらく微妙にずれたかたちで視聴者のもとに届いてしまうはずだ。そもそも第一義的には、『ぐびなま』は、きっと中年男性向けに作られた商品であり、『DAKARA』は体内浄化を売りにした清潔感のある商品に違いない、その商品性を提示するには、小西真奈美が、小泉今日子が、適任だったのだ。藤井-山崎ver.は、こうした第一段としての小西-小泉ver.の妥当性が先にあってはじめて、それに対する違和感として生きてくる。それ自体だけ最初に見せられるのでは、本当にただわけのわからない、意図に外れた印象を抱かせかねないけれど、それぞれ先立って放流されたオリジナルバージョンによる洗脳があるからこそ、視聴者の意識に、「ん?」という若干の相違、商品に対する効果的な「引っ掛かり」を残すのだ。 したがって、小西-小泉ver.に対する藤井-山崎ver.は、それぞれ、まるで原曲に対する変調のようでもある。長調だった原曲を、短調で奏でる、或いは、ハ長調だった原曲を、ト長調で変奏する、それは必ず、オリジナルとは「異質な」印象を与える。しかし、それはあくまでも、副次的なものであって、決して、オリジナルを超えるものでも、オリジナルに取って代わるものでもない。オリジナルあっての、変調、なのだ。作家がまず真っ先に発表したいのは、オリジナルが纏った印象なのであり、短調は、ト長調は、この場合あくまでバリエーションのひとつでしかない。けれどその副次的なバリエーションを奏でることで、その曲の印象が、演奏形体が、相対化され、深みを持つのである。 だから、藤井-山崎ver.は、小西-小泉ver.の「続編」ではない。しばしば、ひとつの商品に対して、イメージタレントはそのまま変わらないで、シチュエーションだけが変更するような、「続編」的CMがシリーズ化されることが間々あるけれど、そうしたシリーズ化CMのように、ある時期まではこのシリーズで、またある時期からは次のシリーズへ突入する、という具合に、放映時期が後続してダブらない放流パターンではなく、『ぐびなま』や『DAKARA』のツーバージョンのCMは、同時期に、正確には、一つ目のバージョンが放流されてから間もなく二つ目のバージョンを放流し、視聴者の目に、ワンクールで確実にツーバージョンが触れるように操作すること、「推移」でも「差替」でもなく、「変調」こそがこの戦略のミソなのだ。 ■ライフカード・ブーム 「小西-小泉ver.」に対する「藤井-山崎ver.」、それは凄く解りやすく言えば、「どーすんの!どーすんの俺!」という台詞が印象的な(長期間放流することでより「印象的」に仕立て上げられた)、あの『ライフカード』のCMの、オダギリジョーの「フレッシュマン来たる編」に対する「マドンナ編」ではなく、「オダギリジョーの全てのバージョン」に対する「劇団ひとりのバージョン」なのだ。同時期に、重複するように放流されたツーバージョン、けれど決して、並列した同等のものとしてではなく、あくまで、「オダギリあっての劇団ひとり」という関係性を保持しながら、且つ、『ライフカード』の商品名は、通常のCMよりも単純計算して2倍、視聴者の元へ届けられるとともに、圧倒的多数でしかもバラエティ豊かな視聴者に対して、ある程度相対化したメッセージと印象を用意することができる。 それは、変わらない一つのバージョンのCMを、ひとつのクールの中で通常の2倍の量流したり、ツークールに渡って2倍の期間流したりするよりも、さらに多層的な効果をもたらす。ツーバージョン流すことで、印象は、2倍ではなく、2乗になる、単に、量の問題ではない。例えば『DAKARA』は、ツーバージョンCMを用意することで、女性だけじゃなくて男性も飲めるんだよ、という単純な解釈だけでなく、小泉ver.から連想される「発散すること=浄化すること」以外の連結、例えば山崎ver.で言えば、「発散すること=内在する驚異的パワーを発揮すること」だったりするのかもしれないけれど、とにかく、煮ても焼いても、『DAKARA』という商品は、体内のメカニズムの中で蓄積された何かよからぬものが「発散すること」を誘発する飲料水であることを尽く印象づけさせ、その「発散の仕方」については、小泉的なるものから山崎的なるものまで、様々なバリエーションがあるのだと、そう解釈しうる。つまり、ツーバージョン見せることで、基本理念として根底に流れる、共通内容としての「発散」を再-強調するとともに、それぞれのバージョンが独自的に持つ、方法としての「多様性」を示唆することができる。 二つのバージョンのあいだには、インパクトの強弱や爽快感の上下などといった量の関係よりも、ある種の主副関係や、相対的な印象付けといった、質的な関係の方にこそ、その主要な役目を見出してやるべきだろう。もしかすると、『ライフカード』以前にも、別のタレントをサブ的に用いたバージョンを同時期に放流して、共通理念の再-強調と方法としてのバリエーションの拡張を企てたディレクションがあったかもしれないけれど、残念ながら僕の記憶には残っていない。ひとつのディレクションで、クールごとにバージョンを変えて次々と放流したシリーズCMには、数年前の黒ラベル(豊川悦司×山崎努)のシリーズだとか、7-elevenのシリーズだとか、今だったらFMV(木村拓哉)のシリーズだとか、一連の記憶に残っている良いCMは多いけれど、今回取り上げたような「重複変調」的な放流のパターンは、最近になって(もしかすると『ライフカード』以来)、ぐんと増えたように感じる。クドカン出演のサッポロビール『雫』のCMも、「重複変調」すれば、印象の層は何重にも厚みを増すはずなのに、そして、クドカンは絶対、「重複変調-後」のサブバージョンとして起用すべきだと思う(笑) ちなみに、ライフカードのCMの、最後、選択肢として残った数枚のカードの、選択されたそれぞれのカードが導く物語の行方は、ホームページ内で視聴できるのだけれど、これがなかなか、面白い。続きが複数バージョンあって、それをホームページで閲覧できるシステムがいい。「マドンナ編」は、とりあえず全部あまずっぱい。ちなみにちなみに、僕が最近、最もうっとりするCMとして挙げたいのは(作為的だな、と感心するCMはまた別にある)、キリンビール『円熟』のCMで、小林薫さん扮する「父」が、退職後ひとりで、沖縄の離島の古民家に新たに住まいを構える。風が吹く、この場所を見せようと、離れて住む「娘」を呼んで、縁側で、二人でビールを飲む。「東京は、…卒業だ」という台詞のあいだに流れる、『オーシャンゼリゼ』のタイミングがたまらない。前奏のリズミカルなピアノの伴奏が、唄の直前で一瞬休符する、その息づかい、その呼吸が、「父」の台詞に込められた決意と、「娘」に対する自慢と恥じらい、さらには「娘」の「父」に対する呆れと憧れが混ざりあった複雑な心情をさえも吸い込んで、「オ〜シャンゼリィゼ〜」で、沖縄の涼やかな風に乗って吐き出る。ああ、と、うっとりするんだ。どうでもいいけど、最後の、縁側でうたた寝をする「父」のカットは、もっと別のにした方が良い。頭の角度が、やや下を向いているのが気に入らない。あそこの体勢はもっと、その先のどうしようもなく弛緩した暮らしを仄めかせて、もっと無防備であってほしい、むしろ仰向けになった「父」を俯瞰するカットでもいいくらいだ。んー〆のカットだけに勿体ない!
by tajat
| 2006-06-11 06:20
| 時事
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